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 ピーターラビットでお馴染みの英国北西部湖水地方にはアーツ&クラフツの建築がいくつか残っています。また、資料的に有名な建築以外にも、ごく普通にアーツ&クラフツの影響を受けた建物も少なくありません。ブラックウェル館はこのようなアーツ&クラフツ建築の中でも、その保存状態や設計の素晴らしさにおいて、湖水地方の白眉とも言える建物です。
 設計は当時33歳のベイリー・スコット(1865-1945)です。英国南西部ケント州の生家はオーストラリアに広大な牧羊地を持つ裕福な家庭で、スコット自身も家業を継ぐために農業高等学校に進学しますが、次第に建築に興味を抱くようになり、卒業後はパースにある建築事務所に見習いとして勤めます。
 当時の英国で最先端の仕事をしていたウィリアム・モリス、ノーマン・ショウ、フィリップ・ウェブなどの影響を受け、ジョン・ラスキンに源を発するアーツ&クラフツ運動に理解を深めます。1892年には新婚旅行で訪れたマン島(オートバイレースで有名)に自らの設計事務所を開設しました。
 また、人気雑誌であった「The Studio」に多くの設計案や構想を発表し、名前を知られるようになりました。ドイツのヘッセン候やルーマニアの皇女メアリーのためのインテリア設計でさらに知名度を高めたスコットのもとに、マンチェスター市長を務めたこともあるエドワード・ホルト卿から館の設計依頼が入ります。
 敷地のあるウィンダミア地方は(自然保護の面から大きな反対がありましたが)1847年に鉄道が開通し、都会に住む富裕層の別荘地として人気を高めていました。ウィンダミア湖は南北に細長い湖で、西側はピーターラビットの作者であるポターの住まいが丘の上にありますが、別荘は平地の多い湖の東側に建設されます。そして、一般的には西向き、すなわち湖に面して広い開口を設けるように設計されます。しかし、スコットは南向きに広い開口を設け、西側には小さな展望しか得られないように設計しました。その西向きの部屋はこのブラックウェル館でも最高の部屋で「白い客間」と呼ばれています。写真「西側庭園より」の左下に見える小さな出窓がその場所です。
 「白い客間」のインテリアは白一色で、凝った造りの白い石膏細工がインテリアにアクセントを付け、出窓部分は真っ白な素材で造られた半円形のソファになっています。エントランス回りの重厚で木材を多用したアーツ&クラフツ調のインテリアに比べ、この「白い客間」はまるで宙に浮いているような軽やかさがあり、視界を絞った西向きの開口はウィンダミア湖を一層美しくピクチャレスクしています。
 この邸宅は、非常に入念にレストアされておりベイリー・スコット最上のデザインを味わうことができます。Bowness on Windermere Cumbria LA23 3JT
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 テムズ河の南側はバックサイドと呼ばれ、開発に取り残された工場や倉庫が乱雑に並ぶ治安の良くない地域でした。2000年を目標にこの地域の再開発が進められ、元火力発電所を改築して美術館に変身させたテート・モダンミュージアムを中心に、全く新しい現代建築が集中する地域に変貌しました。
 この地域は元々公共交通機関も未整備な地域であったため対岸のセントポール寺院側から橋を架けることが必要になったのですが、テムズ川を横切る橋は1884年のロンドン橋以来、一本も架けられていなかったのです。このため、計画は多くの抵抗にあい、実施は二転三転しますが、最終的にはノーマン・フォスターの設計による吊り橋が20006月に完成してお披露目されました。
 ところが、これがちょっとした欠陥構造で、多くの人が渡ったり横風が強いと激しく横に揺れたのです。開通3日目にして橋は閉鎖になり、2年経った20022月に補強工事を経て再度開通しました。現在も多少は横揺れしますが、これは吊り構造である以上やむを得ないのかも知れません。しかし、口の悪いロンドンっ子はこの橋をWobbling Bridge(ゆらゆら橋)と呼んでいます。
 ミレニアムブリッジの橋桁は8本のワイヤーとY字型橋脚2基によって支えられています。橋脚のY字は「優雅な剣、光の翼」を意味しているそうですが、いかにもスパン(橋脚間の距離)が長く、上部からの吊り構造でない以上、左右方向に相当大きくストラトス(補強部材)を張り出さないと横揺れが起きるように見受けられます。再開通後は、デッキの下部に大きな油圧ダンパーを装備して横揺れと縦揺れの軽減を図っています。
 ノーマン・フォスターは香港上海銀行本店(1986年)の設計で一躍に有名になった建築家で、生まれは1935年・マンチェスターです。イェール大学で学んだ後「宇宙船地球号」で有名なバッキー・フラーのもとで修行を行い、パリのポンピドーセンターの設計で有名なリチャード・ロジャースらと組んで「チーム4」を結成しハイテク志向・工業製品志向のデザインを行います。1967年には自らの事務所を開設。「建築は芸術と科学の融合」をテーマに、ベルリン国会議事堂改修、フランクフルトのコメルツ銀行、スイス・リ本社(通称「ガーキン」)などの作品を次々と発表しています。
 最近の話題作はフランス南部・ミヨーに設計した「世界一高い橋」で、地上343メートルに雲間を貫通するように造られています。ちなみに、橋脚は7本あり、上部からの吊り構造です。
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 コンバージョンとは転換するという意味で、野球などのコンバートと同じような意味合いです。コンバージョン住宅と言う言葉は日本でも最近聞かれますが、ある建物を用途転換して住宅や店舗にすることです。
 ウィーンのシュベヒャート空港から市内に向かう高速道路の左側に4連の丸い煉瓦建ての構造物がありました。この構造物は19世紀に築造されたガスタンクで、ウィーン市内にガスを供給していました。しかし、山国のオーストリアは20世紀に入ると水力発電が盛んになり、現在では他の国に電力を輸出するほどの電力生産国です。キッチン熱源の電化速度も速く、20世紀後半になるとガスタンクは無用の長物となっていたのです。
 ウィーン市はこの近代産業の遺構を取り壊すことなく保存するために、コンバージョン計画を進めました。住宅、ショッピングセンター、オフィス、劇場、レストランなどを含む一大複合施設を建築家Manfred WehdornWilheim Holzbauerに依頼して建設したのです。完成は2001年、当初は劇場の屋根が落ちるなどの珍事もありましたが、現在では「ガソメーター」という愛称で市民に親しまれています。コンバージョン住宅の事例としては世界的にも有名な施設です。
 デザインは「木に竹を接ぐ」という言葉を思わせる、異物同士を組み合わせて双方を際だたせる手法です。斜めに曲がった建物が住居棟で、ガスタンク部分にはショッピングモールなど公共施設が入っています。スクラップ&ビルドの激しい我が国では古い建物を利用してコンバージョン化するよりも、新しい建物を建てた方が効率が良いという考え方が根強いため「ガソメーター」のような事例は難しいかも知れません。
 六本木や丸の内、汐留に続々と誕生している新オフィスビルの影響を受け、都心部で中小の貸しビルに空き室が急増していますが、それらをコンバージョン住宅にするなどの発想もあるようです。交通の便が良く公共施設も充実している都心が、新たな魅力を持つ居住地域として見直されるかも知れません。
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 日本の名水百選とか桜百景などなどと同じように、フランスには「美しい村」シリーズがあります。中でも「フランス一美しい村」として有名なのがペルージュ村です。ただし、「フランス一」は他にもサン・シル・ラポピーやリクヴィル、リポーヴィレなど沢山あって、どれが本当の「フランス一」かは判りません。それぞれ「フランス一美しい村」の一つと言ったところでしょうか。
 ペルージュ村はリヨンの東約40Kmの所にある中世の村です。村は歴史保存を徹底的に行い電線や電柱、テレビのアンテナ、看板などは一切見あたりません。道は舗装ではなく玉石を埋め込んだ石畳で、村のゲートを入ったとたん、中世にタイムスリップします。
 この村では中世を舞台にした映画やTVのロケが頻繁に行われ、特に映画「三銃士」のロケ地になったことで一躍有名な村になったようです。この村はローマ人によってその礎が築かれましたが、丘の上にあることから、リヨンへの「のろし台」として重要な場所でした。17世紀頃まで繁栄を続けましたが、近世になり産業構造が変化し始め、次第に村人は平地の街に移住していきます。19世紀になると人口減少はさらに進み、一時は1500人もいた村民はわずか8人になったそうです。そして村はそのまま、ゆっくりと朽ちていきながら20世紀を迎えます。
 20世紀初頭、美しい佇まいの村に対して文化人などが保存運動を起こします。映画の撮影などに使われたことから、次第に観光客も訪れるようになり、中世そのままの空間が保存再生され今日に至っています。
 村は石造りの住宅で囲まれた広場を中心に持ち、広場の外側に外周道路が巡っています。村そのものの規模は小さく、外周道路をゆっくり歩いて一周しても30分ほどです。
 中世そのものの石組みや建物の造形、小さな開口部などは一種の重苦しさを感じさせます。歩きにくい石畳の路地も舗装に慣れた現代人には苦痛です。しかし、本物の中世がそこにはあり、この無骨な重苦しさこそが中世の空間そのものなのです。
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 青森県弘前市には明治期から大正期に建築された多くの西洋館が残っています。西洋館が多数残っている理由は、地元の保存運動が功を奏していることもありますが、第二次大戦で空襲を免れ火災による焼失が無かったと言うことが大きな理由です。
 しかし、なぜこのように多くの西洋館が当時建てられたのでしょうか。それには二つの理由があると言われます。
 一つは明治期の早い段階から外国語教師を招聘して、語学教育を行ったと言うことです。東奥義塾では明治6年にアメリカ人教師を招いて英語教育を始めています。多くの来日した教師達は語学と一緒にキリスト教の布教も行ったため入信する人も多く、明治8年に弘前公会が設立され、明治19年には来徳女学校(現弘前学院)が開校しました。カソリック系、プロテスタント系は競って教会や教師宿舎を西洋館で建築したのです。
 もう一つの理由は明治28年、弘前に旧陸軍第八師団本部が設置され師団司令部や偕行社を西洋館で建築したからです。偕行社とは将官や将校などの親睦と軍事研究を行うためにつくられた団体で、旧陸軍省営繕組織の設計により、弘前を含め全国各地に偕行社の西洋館が建てられました。
 こうして現存する弘前の西洋館の多くは、堀江佐吉と言う棟梁が手がけています。堀江佐吉は祖父の代から津軽藩お抱え棟梁の家系で、子供の頃から当時の海外情報を伝える絵入り本「海外余話」などに見入り、西洋に対する興味を膨らませていました。開拓使の仕事で函館に渡り、現実に存在する教会や西洋館に触発され、独学で西洋建築をモノにしました。棟梁と言っても設計と施工を行う建築家のような存在だったのです。
 上写真の一番上はクリスチャンに改宗した棟梁桜庭大五郎が建築したものですが、右の二つは堀江佐吉が設計・施工した建物です。中でも旧第五十九銀行は佐吉の代表作と言われ、国の重要文化財にも指定されています。また、太宰治の生家である「斜陽館」も佐吉の手による和洋混交建築です。
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 179672日、ラインラント地方の小さな街ボッパルトにミヒャエル・トーネットは生まれました。父親は貧乏な革なめし職人でした。トーネットは父親の職業を嫌い、家具職人の道を選びます。家具職人として有能だったトーネットは23歳の時に独立し、自分の工房を持ちます。当時の社会は商人や市民階級が富と力を持ち始めた段階で、従来のように貴族や富裕階級向けにだけ家具やイスを造る時代は終わろうとしていました。また、動力に蒸気機関を使うなど、産業界も変革の時代を迎えつつありました。社会は丈夫で安価なイスを求めていたのです。
 そんな時代の空気を察知したトーネットはムクの木を曲げることに興味を持ちます。ナラやカバの丸棒を釜で煮て、鉄のタガにはめて曲げていけば植物繊維は破断することなく曲げられるという方法を発見し、特許を取得します。このような方法で造ったイスや傘、ステッキをコブレンツの産業見本市に出したところ、宰相メッテルニッヒの目にとまります。産業振興を重要施策と考えていたメッテルニッヒはトーネットに産業としての可能性を見いだしたのです。ウィーンに行って皇帝に会うように説得されたトーネットは翌年、ウィーンで皇帝に会い皇帝御料局より特許を与えられます。
 トーネットの曲げ木のイスは従来のように手仕事中心ではなく、部材を一定の形状に成型しこれを組み合わせてイスを造る方法でした、組み立ては特殊な方法ではなく木ねじが主体ですので特別な技術も必要としませんでした。また、現在で言うノックダウン方式であったため、分解した状態でかさばるイスを輸送することで輸送コストも抑えることができたのです。数々の工夫を凝らしたトーネットのイスは爆発的に売れ、生産開始から現在まで数億脚が世界各国に販売されたと言われます。当時の著名な建築家も興味を示し、ヨーゼフ・ホフマンやアドルフ・ロースなどもトーネット社から曲げ木のイスを発表しました。また、この曲げ木のアイディアが後のミース・ファン・デル・ローエやマルセル・ブロイヤーの金属パイプイスに大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
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 パリのセーヌ川をシテ島から下っていくと、左側にエッフェル塔が見えてきますが、その付け根にブランリー美術館があります。066月に華々しくオープンした美術館です。華々しいというのは、シラク大統領がパリ市の市長だった頃からのプロジェクトで、ことさら思い入れのある美術館だからです。
 宗主国だったこともあって、フランス人のアフリカ好きは有名です。コルビジュエなどは行き詰まると常にアフリカ美術へ設計のテーマを求めたことは良く知られています(例えばロンシャン教会など)。この美術館はアフリカ美術をはじめ、アジアやオセアニアなどの民族芸術を広く集めた美術館で、楽器や衣服を中心に30万点ものコレクションを誇っています。
 地名のケ・ブランリー(ブランリー河岸)をそのまま付けた美術館はセーヌに沿ってガラススクリーンが200メートルに渡って建てられ、一種の結界を造り出しています。このスクリーンからピロティで持ち上げられた細長い展示棟の入り口までのアプローチも200メートル近くあり、その間は「乾いたビオトープ」というか、荒れた工事現場のようなしつらえになっています。
 特に冬はススキや低木が枯れ果て、地上に露出しているオレンジや青の配線用ビニールチューブが「荒れ果て感」をいっそう加速してくれます。展示棟からは、この荒れ果てたアプローチに向かって派手な色に塗られたボックスがランダムに突出しており、設計したジャン・ヌーベルの意図をはかりかねます。荒々しさだけが印象に残りそうな建築で、アラブ世界研究所やカルティエ財団で見せた繊細さは影を潜めています。
 内部の展示スペースはヌーベルらしい展示手法が多く取り入れられており、心地よい展示スペースになっています。使われている素材も民族美術館に相応しく、革や粘土が使われています。また、吹き抜けやスロープを組み合わせた空間構成も変化に富んでいます。
 ヌーベルは、民族芸術の持つ根源的なエネルギーを受け止める空間としてこの美術館を設計したと語っています。確かにこの独特の荒々しさは、民族芸術の荒々しさに通じるものがあります。しかし、それが現代の工業製品で造られているために荒涼とした風景になっているのかも知れません。
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 ビエンナーレとは隔年という意味で、3年毎だとトリエンナーレになります。ビエンナーレでもっとも有名なのがベネチアではないでしょうか。ベネチアでは世界中の美術をテーマを決めて集め、一堂に展示する方式で、約百年の歴史があります。他にもベルリンやサンパウロでビエンナーレが行われていますが、規模と格式ではベネチアが一歩先を行くと思います。
 サンタルチア駅で電車を降り、ヴァポレット(水上バス)に乗り換え、大運河をS字型に遡航していくと左側にドゥカーレ宮殿、右側にパラディオのサン・ジョルジオ・マッジョーレ教会が見えてきます。ここでヴァポレットを乗り継ぎ、10分程で市民公園に到着します。ここで降りてブラブラ歩きながらビエンナーレ会場に向かうのが良いでしょう。
 付近はサンマルコ広場あたりと全く異なり、街並みはイタリアの小さな漁師町のような雰囲気です。路地にはいると洗濯物が道をまたいで空中に干してあったりします。
 ビエンナーレの展示内容は現代美術が多いのですが音楽や演劇、映画などのフェスティバルも行われます。中でも注目したいのはパーマネント展示として建築館があることです。これはビエンナーレと連動しないときはいつでも見ることができます。
 日本館はビエンナーレ建築展のためにコミッショナー制度を設けこれまで磯崎新氏や森川嘉一郎氏などが就任しています。コミッショナーは展示に関する全ての人選や企画に責任を負うのですが、前回のコミッショナー森川氏は「萌える都市」をテーマにいわゆるアキバ系オタク文化にフォーカスした展示が行われ、大きな話題を呼びました。フランス、イタリア、ドイツでは日本のアニメや劇画を介して若いアキバ系が少なからず誕生しています。そのような層に「萌える都市」の展示は新しいメッセージを伝えたようです。フランスの若い女の子二人連れがアキバを目指してフランスを脱出、陸路を日本に向かいウクライナの国境で保護されたのも、記憶に新しいできごとです。
 2006年度は藤森照信氏がコミッショナーに選ばれ、9月から11月にかけて「メタシティーズ」というテーマの展示が行われます。赤瀬川原平氏や南伸坊氏等、路上観察学会の成果が藤森氏の手腕でどのように展開されるか楽しみです。
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 チェコ南部にはいくつかの世界遺産があります。中でも最も有名なのはチェスキークルムロフの街です。曲折するヴルタヴァ河をはさんで古い街並みが広がり、プラハからのエクスカーションとして日本人観光客にも人気が高い所です。
 チェスキークルムロフからさらに東南に進み、オーストリアとの国境近くにある世界遺産の街がテルチです。交通の便が余り良くない上にホテルなどの宿泊施設が完備していないため、チェスキークルムロフほどの人気はありませんが大変魅力的な街です。
 テルチは古くから「水城」として付近を治めてきました。街の周囲は城壁と池で囲まれ、敵の攻撃を受けたときは橋を落とし、水に浮かぶ城として防御したのです。チェコとオーストリアの国境付近は河川が多く、古くから水力を利用した繊維産業、ガラス産業、木工産業などが発達した地域です。
 テルチの街を特徴づけているのは、イタリアルネッサンス様式で作られた家々の外観です。最初にテルチの街を訪れ、細長い広場に立った人はその可愛らしくもユニークな外観に、一様に驚きの声を発します。チェコを代表する作家カレル・チャペクが紀行文の中で「我が国で最も美しい広場」としてほめたたえ「モラヴィアの真珠」と称されるのも頷けます。
 テルチの街は12世紀頃から発展をはじめましたが1530年に火災が街を襲います。灰燼に帰した街を再建する際、時の領主であったモラヴィア貴族ザハリアーシュは再建される建物を初期バロック様式かルネッサンス様式に限定するように義務づけしたのです。
 街は細長い広場を軸に対面する二つの街並みで構成され、建物下部にはアーケードが貫通しており、今日で言う「都市計画」的な骨組みを持っています。
 外壁の装飾は「グラフィート手法」(漆喰壁を傷つけて描く「掻き絵」)が用いられ、暖かみのある繊細な文様が描かれています。チェコのクリスタルガラス製品を特徴付けているエングレービング手法の起源はこんなところにあったのかも知れません。
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 何事にも「三大○○」とか「御三家」言うのがあります。ピアノの世界ではシュタインウェイ・ベッヒシュタイン・ベーゼンドルファーがそれに当たります。
 ベッヒシュタインはドイツの会社、シュタインウェイとベーゼンドルファーは元々オーストリアの会社ですが、第二次大戦でナチの迫害を受けシュタインウェイは米国に避難しました。ベーゼンドルファー社は未だにウィーン(近郊)でピアノを作り続けており、今年で創立175年になります。175年間に造ったピアノは約7万台ですが、これは日本の大手ピアノメーカー数年分の生産量です。
 同社はその時代の著名なデザイナーや建築家と手を組んで特別モデルの生産を行ってきました。古くはウィーン工房の立役者ヨーゼフ・ホフマンやヨーゼフ・フランクなどによってデザインされ、最近ではオーストリアを代表する現代建築家ハンス・ホラインによってデザインされたピアノが製造されました。
 2003年にはポルシェデザインと手を組んで全く従来の素材やデザインにとらわれない斬新でモダンなピアノが製造されました。ポルシェデザインは自動車のポルシェ社から独立したデザイン会社で、現代ドイツを代表するデザイン会社です。
 ポルシェデザインのベーゼンドルファーはユニークな工夫が多く見られます。先ず目を引くのは大屋根と呼ばれる蓋の部分です。通常、蓋はピアノ本体より一回り大きく、はみだした形状になっていますがポルシェデザインはインセット、つまり本体の内側に落とし込まれています。これは大変な精度を要する収まりで、溝がカーブを描きながら一定の幅を維持しなければなりません。車のドアの収まりと同じです。脚部やペダル廻り、音響調整板などにはアルミの鋳物や削りだしが使われていて、見ていくほどに「イグニッションキーは何処にあるのかな」という気分になります。
 さて、実際の音ですが見た目ほど固い音ではなく、豊かな高音部とベーゼンドルファー独特の低音に彩られた音色は、どちらかと言えばジャズやポップスに向いているようです。
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 シトロエンというフランスの車をご存じの方も多いと思います。現在は販売不振からプジョーグループの傘下にありますが、そのユニークなメカニズムやデザインで一時代を画したメーカーです。
 ジャン・ギャバンが主演したような古いフランス映画には必ずシトロエン11CVが出てきますし、歴代のフランス大統領はシトロエンを公式車として採用してきました。印象に残る映画「ディーバ」にもシトロエンが効果的に使われていました。
 パリのセーヌ左岸にはエッフェル塔が接していますがそれより少し川下にジャベル河岸という場所があります。現在はシトロエン河岸と呼ばれていますが、これはかつてシトロエンの大工場があったためにつけられた名前です。造られた車はジャベル河岸から船に載せられヨーロッパ各地に運ばれたのです。
 シトロエンをもっとも特徴付けているのはハイドロニューマチックというサスペンションです。これは植物オイルと窒素ガス、駆動ギアを使った動的なサスペンションであたかも生き物のように作動します。
 さて、そのようにユニークな車を作っていた工場跡地にはこれまたユニークな公園があります。その名も「アンドレ・シトロエン公園」。この公園にはフランス人の庭園観と言うか、植物観がよく出ています。
 庭園には大きく分けてフランス式とイギリス式があります。イギリス式は風景式とも言われ、実は大変手を入れているにもかかわらず、自然の風景のように作庭します。フランス式は幾何学の法則に則って、人工的で時に奇矯な作庭を行います。日本人の作庭観から見ると植物を痛めつけているようにも見えます。
 シトロエン公園の多くの植物たちは箱に閉じこめられ、ぶ厚いコンクリートの囲いに入れられています。
 機械を生き物のように造り、植物を機械のように扱うフランス人の感性。このような感性を「アンバランスがとれている」とでも言うのでしょうか。
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Lorem ipsum dolor sit amet, sapien platea morbi dolor lacus nunc, nunc ullamcorper.  エリック・グンナー・アスプルンドは北欧を代表するモダンデザインの建築家です。1885年ストックホルムに生まれたアスプルンドは王立工科大学建築科に入学しますが、直ぐに退学してしまいます。一緒に退学した5人の仲間と一緒に「クララ・スクール」を設立し(1910年)、独自に建築を学びます。1928-30年のストックホルム博覧会の主任建築技師を任されるまでは住宅設計やコンペへの応募、建築雑誌の編集などをして食いつなぎますが、作品の傾向は当時北欧で流行していた新古典主義の範疇から出ることはありませんでした。
 1930年のストックホルム博覧会ではスチールとガラスというモダンデザインをもたらす重要な材料を使いこなし好評を博し、スウェーデンに初のインターナショナルスタイルをもたらします。この博覧会以降アスプルンドのデザイン傾向は大きく変化をし、抑制のきいたモダンデザインで多くの設計を手がけました。
 代表作は二つあり、一つは「ストックホルム市立図書館」もう一つは「森の墓地」です。「ストックホルム市立図書館」は直方体に円筒が貫入するという実にシンプルな空間構成ですが、フランスのバロック建築家ルドゥーのプロジェクトを彷彿とさせます。内部は三層にも及ぶ円筒形の書架が360度取り囲み、この空間へ入った者を圧倒します。天井は鱗模様のスタッコ仕上げで、下部書架の圧倒的なボリュームと好コントラストを見せます。
 「森の墓地」は広い墓地の中に礼拝堂や墓地、火葬場などを配したランドスケープ(景観)建築の傑作です。そもそもは1914年に応募して一等賞を得たコンペ作品ですが、1940年まで実に26年の歳月をかけて完成します。
 緑の岡を緩やかに登っていくアプローチは左側が低い塀、岡の頂上には十字架が立っており、十字架の左側に火葬場がありますが、頂上に到着するまでは火葬場は視界に入ってきません。死者を悼む気持ちと長いアプローチが同期して独特の空間を生みだしています。完成した1940年にアスプルンドは亡くなり、この墓地に葬られています。
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 ロバート・オーエンは1771年ウェールズに馬具商の息子として生まれました。長じてマンチェスターで紡績工場を営むようになりますが、当時の紡績工場で働く人々は最下層の大人や子供たち、それも多くの孤児が労働を支えていました。しかも、埃や繊維屑が舞う環境で長時間働く子供たちは肺結核などにかかり、多くの病死者も出ていました。そのような状況を見てオーエンは環境の改革を夢見るようになります。源をラスキンに持つ、アーツ&クラフツ運動が一種の社会改革またはデザイン革命であったように、当時の英国社会では大胆な「改革・革命」に憧れる人は少なくありませんでした。オーエンもその一人で、どのような子供でもその成育環境が良ければ、善良で優秀な人材になり得ると考えるようになります。
 仕事でグラスゴーを訪問していたオーエンはデイルという娘と知り合い、恋に落ちます。デイルはニューラナークで紡績工場を経営するデビッド・デイルの娘で、二人は結婚しオーエンは入り婿として紡績工場の経営に携わるようになります。この辺りは、少しできすぎたお話のような気もしますが、オーエンは革命を心に抱いた野心家だったのかも知れません。
 1800年になると紡績工場の経営を全面的に引き受けるようになり、オーエンの革命が始まります。まず、工場に幼児のための学校を併設します。この学校を「性格形成学院」と名付け、幼児の教育に力を入れ、就学前の子供が工場で働くことを禁止しました。夜学を含む、就学児のための学校も設け、読み書きや算術はもちろん音楽や芸術に関する教育も行いました。また、医療が無料で受けられる病院や協同組合(生協)のような店舗なども建設します。これらの実践には多大な費用が必要ですが「事業で得た利益は労働者に還元すべき」という理念のもと、ニューラナークの村は一種のユートピアになっていきます。オーエンはその後、社会運動に情熱を注ぎますが、アメリカに広大な土地を購入して共同体を造ろうとして失敗。エンゲルスからは「空想社会主義者」と評されました。
 この200年前のユートピアが現在もそのままに残っているのが、ニューラナークの村です。エジンバラから車で南に1時間ほど走ると、谷間を流れるクライド河の支流を挟むように紡績工場が望見できる丘の上に到達します。やや無表情な建築物は周囲で採れる白っぽい砂岩で造られており、世界遺産に指定されている一群の建築物は旧ソ連の労働者アパートを少しだけ感じさせます。
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 プラハの中心を流れるブルタヴァ川にかかるカレル橋から上流に遡ると、二つ目にイラーセク橋があります。この橋のたもとにダンシングビル(踊る建築)が建っています。
 プラハは奇跡的に戦争による大規模な破壊を免れ、バロック、ロココからキュビズム、現代建築に至るまで、数多くの建築スタイルが存在する希有な都市で、建築の宝庫ともいわれます。中でも異彩を放っているのがこのダンシングビルではないでしょうか。正式名はナショナル・ネーデルナンデン・ビルと言い、フランク・O・ゲーリーと地元建築家ウラジミール・ミルニックによって設計され、1996年に完成しました。まるで、男女がダンスをしているように見えることからダンシングビルと呼ばれているのです。
 フランク・O・ゲーリーは1929年カナダのトロントに生まれ南カリフォルニア大学で建築、ハーバード大学で都市計画を学んだ後、1962年からロサンゼルスに拠点を置き設計活動を行っています。
 建築デザインの分野ではこのダンシングビルのような方向のデザインをディコンストラクティヴィズム(脱構築主義)と呼びます。ディコンストラクティヴィズムとは幾何学的に完結的な形態を廃し、斜線やひし形、曲線、鋭角的な形態を持ち込んでデザインすることによって、エネルギッシュで断片的、未完成で未来的なイメージを作り出すデザインです。ダニエル・リベンスキンドやレム・コールハースなどが脱構築主義の旗手といわれていますが、ゲーリーは1979年に設計した自邸で、工業製品の導入や未完成な形態を用い、早くも脱構築主義の片鱗を見せていることから、その始祖といわれています。
 ゲーリーのこうしたデザイン感覚は、広重や北斎などの浮世絵や京都の寺院などから大きな影響を受けたと自ら述べています。また、鯉の形態感を造形のルーツに持っているようですが、これは子供の時に、安息日の食卓を飾るための鯉がバスタブで泳いでいるのを見た記憶が鮮明に残っているからだそうです。
 そういえばこのダンシングビル、鯉のぼりが空に昇るように見えなくもありません。
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 アルネ・ヤコブセンは1902年コペンハーゲンの裕福なユダヤ系の家庭に生まれました。青年時代、人生の選択を行うとき最初は画家を目指しましたが、総合芸術としての建築の面白さに目覚め、22歳でデンマーク王立アカデミー建築科に進みます。
 時代はセセッションなどの運動が終焉を迎え、バウハウスを中心としたインターナショナルスタイルへの移行時期です。ワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどが活躍を始め「産業デザイン」という言葉が生まれていました。
 セセッションやアール・ヌーヴォーの運動は工業生産と対立する考え方でしたがバウハウスのデザインは工業力を活かしながら、シンプルでモダンなデザインを追求しているのが特徴です。若いヤコブセンは自らの感性とも合致するバウハウスの影響を大きく受け、伝統的なハンディクラフトと産業デザインの融合を考えアントチェア、セブンチェアを始め数々の傑作家具デザインを生み出していきました。
 ヤコブセンは中学生の時、自室のクラシックなインテリアが気に入らずペンキで真っ白に塗ってしまったという逸話が示すように、細部に至るまで空間とモノの関係を追求する姿勢は終生変わらず、家具を始め食器から時計、照明器具、建築、地域開発まで手がけています。
 コペンハーゲンから電車で30分ほど北上したKlampenborgという駅の近くにベルビューという海岸があります。東京で言うと江ノ島のような感じの明るいリゾート地です。ヤコブセンはこの海岸地域の開発を手がけ1934年から1937年にかけて集合住宅、映画館、海水浴場施設などを設計しています。一時は荒れ果てていた建物は近年レストレーションが積極的に行われ、設計当時の美しい姿を見ることができます。
 ベラヴィスタ集合住宅や劇場のデザインやディテールは今日見ても決して古びた印象は無く、逆にこの70年という時間の経過の中で建築家は何をしてきたのかと問いかけられるようです。
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 今から約110年ほど前に活躍した建築家C.R.マッキントッシュはスコットランドの天候や環境への工夫を盛り込んだ「スコティッシュバロニアル」スタイルを生み出しました。
 バロニアルとは地方の材料、風土、工法、生活に根ざした「誠実さ」に基づく伝統的な建築様式という意味です。マッキントッシュのバロニアルスタイルには外壁のラフキャスト、L型プラン、急勾配の屋根などが特徴的に用いられています。
 ラフキャストとはコンクリートの粗い吹き付け外壁で、雨に強く表面が粗面なので雨だれによる汚れが発生しません。L型のプランは強い風から住まいを守る形態で、背中を丸めて北風に耐えるようなイメージです。そして急勾配の屋根は横殴りの雨に対しても排水性が優れ、雨漏りが起きにくいのです。ヒルハウスやウィンディヒルなど住宅建築の傑作は実はスコットランドの自然環境から導き出されたものだったのです。
 1896年、マッキントッシュはグラスゴー美術学校のコンペ用図面を完成させ、提出しています。このコンペに成功したマッキントッシュは以降、30年間にヒルハウス、ウィンディヒルなどの住宅、スコットランドストリート・スクール、クーインズクロス教会などの傑作を完成させていきます。マッキントッシュは当初ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンの影響を受けますが後にスコティッシュバロニアルスタイルを確立させ、近代建築に大きな影響を与えたました。マッキントッシュは英国よりも、ウィーンのセセッショニストたるヨーゼフ・ホフマンやJ.M.オルブリッヒ等によって高く評価され世界に広く紹介されます。しかし、グラスゴーという造船都市の没落はマッキントッシュに仕事の機会を多くは与えず、寡作な建築家として失意の生涯を終えます。
 彼の死後、建築デザインの流れはバウハウスからインターナショナルスタイルへと移行しますが、1970年代に入ってからマッキントッシュの手仕事、地域性を重視する手法に対する再評価の気運が高まり、近年世界各地でマッキントッシュに関するイベントが行われています。
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 マチルダの丘はフランクフルトの東南約50Km、ダルムシュタットの街にあります。この丘一帯は「クンストラー・コロニー(芸術家の村)」と呼ばれ、多くのユーゲントシュティール建築が点在しています。その、中心となるのが「結婚記念塔」と命名された、5本の指を揃えて空に向けたようなデザインの建築です。
 この結婚記念塔は時の支配者ヘッセン候エルンスト・ルードイッヒの結婚を記念して建てられたものです。ルードイッヒは英国ビクトリア女王の孫に当たる血縁を持ち、英国の工芸や建築に大いなる興味を持っていました。
 当時の英国ではウィリアム・モリスを中心とした「アーツ・アンド・クラフツ」運動が始まっており、手仕事を重視した工芸や印刷物(書籍)、家具、食器などが盛んに造られていたのです。これに触発されたルードイッヒはダルムシュタットに古くからある家具産業が機械化の波に押し流され、絶えようとしているのを救うため、有能な建築家やデザイナーを集めたコロニー建設を思い立ったのです。
 第一期には工芸家、美術家、建築家が7名集められ、その責任者となって活躍したのが建築家J.M.オルブリッヒです。オルブリッヒはクリムトやシーレ、ホフマンらと共に興したウィーン分離派運動の立役者で「分離派会館」(1898)の設計で既に一定の地歩を得ていました。高額な給料とプロフェッサーと名乗ることを許すという条件で、オルブリッヒはウィーン分離派を捨てダルムシュタットに移り住みました。
 ダルムシュタットでのオルブリッヒの活躍はめざましく、移住した翌年の1901年までに住宅6戸、共同アトリエ、ルードイッヒハウスなどを完成させ、家具、食器、衣装、建築を含む総合的な展覧会まで開催しています。展覧会は引き続き04年、08年にも行われました。
 結婚記念塔は1908年の展覧会に合わせ完成しますが、ダルムシュタットでのオルブリッヒ自身は嫉妬とやっかみによる、言われ無き誹謗中傷を受け続け、それが原因かどうかは判りませんが、同年41歳の若さで没してしまいます。
 しかし、このマチルダの丘に芽生えた近代デザインの精神はワイマールのバウハウス運動へと発展して行ったのです。
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 フォントネー修道院はフランス、ディジョンの北東にある世界遺産に指定されているロマネスク建築の修道院です。キリスト教における修道院は東方正教会などが形作ったものといわれています。修道院という建物が最初からあったのではなく、荒野や砂漠の洞窟で謹厳な生活を営みながら宗教的な思索を巡らす隠修士たちのために共同生活の場を与える施設として、東方正教会などによって修道院が造られたのです。
 7世紀頃になると修道院はヨーロッパ全体に広まりますが、謹厳な思索の場であると同時に、幼児の教育、施療などを行う世俗的な施設を併せ持つようになります。また、祭礼に用いるワインを製造するためにワイン畑を持ち醸造技術の研究も行います。さらに、農作物の品種改良なども行い、農民などに伝える機能も持つようになります。パンの焼き方から農機具の改良、薬草の研究など生活に関するあらゆる研究と改良をおこなったのです。我々は仏教の修行僧とキリスト教の修道士を重ねてしまい、精神面だけで修道士を見てしまいますが、修道院はもう少し世俗的な、中世に於けるシンクタンク的な位置づけだったのです。
 10世紀になると修道院は民衆の信仰を背景にさらに力を持ち、領主から徴税権、開墾権などを与えられるようになり、修道院は一種の独立自治体的な性格を帯びます。また、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が盛んになり、巡礼者への飲食や宿泊場所の提供、病気になった者への施療、盗賊から巡礼者を守るための警護などを行うようになります。これによって修道院は多額の収益を上げるのですが、同時に世俗的な華美贅沢を求める堕落も始まり、精神性の希薄な利益追求機構になってしまいます。
 12世紀になると修道院の堕落に異を唱え原点回帰を願い、精神性を重んずる宗派であるシトー派が台頭してきます。シトー派は人跡まれな山奥に修道院の敷地を求め、土地を開墾して精神修養と生活の場を得ます。その総本山がフォントネー修道院なのです。
 川を巧みに利用した水力機械による製粉、金属製品のための鍛冶場、雨水を利用するための貯水池、修道士が寝泊まりする砂をまいた床に藁を敷いただけの粗末な宿泊棟など、ここには修道院の原点を見ることができます。
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 近代のモダンデザインはヨーロッパ各国で同時多発的に起きていた工芸運動を母体にしています。1920年代以降、貴族や権力者に奉仕していたデザインが市民に開放されたのです。そのシンボル的な学校がバウハウスです。
 国立のデザイン学校バウハウスは1919年ドイツのワイマールに造られました。ワイマールは第一次世界大戦に敗れ、新生ドイツとして生まれ変わったドイツ共和国連邦の首都でした。初代の校長は「ファグス靴工場」「ファブリーク」(オフィスビル)でガラスの導入や陸屋根のデザインでモダンデザインの祖とも言われるワルター・グロピウスです。
 1926年にはデッサウに新校舎が完成し、本体が移動します。右の写真は世界遺産に指定されているデッサウのバウハウス建築群です。グロピウスは学校の運営に当たり、モダンデザインの教育施設であるにもかかわらず、教室を「工房」、教授を「親方」と呼ばせていました。あたかも工芸運動への先祖返りのようですが、モダンデザインの行く末を知るグロピウスの英知とも言えます。「ファグス靴工場」の設計などを通じて工業技術とアートの双方を知ったグロピウスは手仕事の重要さを認識したと考えられます。
 校舎から数分の場所には多くの教員住宅が建てられました。この教員住宅は単なる居住施設ではなく、「親方」たちの仕事場でもあったため、多くはアトリエ風の造りになっています。例えば「親方」であったパウル・クレーやワシリー・カンジンスキーの住まいもこの中にありました。学生達はきままに「親方」のアトリエを訪ね、仕事ぶりを見て学ぶことができたのです。
 ある自動車メーカー設計部門の話ですが、一時は新卒で研修が終われば直ぐにCADを使って設計を行わせていました。CADはどんな曲線でも形態でも簡単に造ることができます。しかし、彼らが造る造形には現実感が乏しかったのです。そこで、新卒も入社してから4年間は粘土で造形することを義務づけてからは突飛な造形が出なくなったと聞きました。グロピウスは早くもそのことを知っていたのだと思います。
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 1900年代初頭、北欧諸国では巨匠と呼ばれる建築家を多く輩出しました。デンマークのヤコブセン、スエーデンのアスプルンド、フィンランドのアールトやサーリネン父子などです。中でも異彩を放っているのがサーリネン父子ではないでしょうか。父親はエリエル・サーリネン(1873-1950)、息子がエーロ・サーリネン(1910-1961)です。父親はヘルシンキ中央駅の設計で、息子は米国ケネディ空港TWAターミナルやGM技術センターの設計で、それぞれ名を馳せました。
 フィンランドは650年もの間、隣国スウェーデンに領有され、その後は1917年にロシア革命が起きるまでロシア帝国の支配下に置かれました。1800年代が終わろうとする頃、ロシア帝国支配下のフィンランドで抵抗運動の一つとして民族主義運動が起こります。その引き金となったのが地方の一医師エリアス・ロンレットが民謡を編纂した叙事詩「カレワラ」です。画家カレッラは「カレワラ」に基づく民族の自覚を絵画で訴え、この運動はナショナル・ロマンティズム運動と呼ばれました。
 ヘルシンキ工科大学を卒業したばかりのエリエルはカレッラの影響を強く受け、これを建築の設計に反映したナショナル・ロマンティシズム様式を確立させます。
 しかし、その様式は当時ヨーロッパで同時多発的に起きていた工芸運動の影響を強く受けたものでした。ドイツではユーゲントシュティール、英国ではアーツ&クラフツ、オーストリアではセセッシオン、イタリアではスティル・リベルテ、スペインではエル・モデルニスメ、フランスではアール・ヌーヴォーと呼ばれたものです。
 民族の自覚に燃え、新しい建築様式を求めるエリエルはヘルシンキ西方のオランド島ヴィトレスク湖畔にカレリア地方の民家を模したアトリエを建築したのです。このアトリエはナショナル・ロマンティシズム様式そのもので、外観は民家を装っていますが、内部は民族色を取り入れた工芸運動スタイルです。複雑な間取りと随所に見られる、工芸運動スタイルの美しいデザインはヘルシンキ中央駅で集大成されるエリエルデザインの出発点と言えます。Hvitträsk, Kirkkonummi Finland
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 最近、日本でも人気の高いアルフォンス・ミュシャは1860年チェコの南部、モラビア地方イヴァンチッツェに裁判所廷吏の息子として生まれました。同時期、モラビア地方にはアドルフ・ロースやヨーゼフ・ホフマン、グスタフ・クリムトなどが生まれています。ブルノの中学校に進みますが、この時聖歌隊に入り、宗教的な教養を身につけ、後の宗教画に影響を与えたと言われています。
 中学校卒業後、ウィーンに出て舞台美術工房で働きながらデッサンを学びますが、リンク劇場の火災で職を失い一旦チェコへ戻ります。ミュシャの卓越したデッサン力を見た、地元の伯爵クーエン・ペランは資金を援助してミュシャをミュンヘンの美術アカデミーに進学させます。美術アカデミーで4年間学んだ後にパリに出たミュシャは、雑誌のさし絵、ポスター、カレンダーなどを制作して糊口をしのぎますが、女優サラ・ベルナールのポスター「ジスモンダ」を制作し大評判になったことで、一定の地位を得ました。
 その後は、ロートレックと一緒にサロンへ出品したり、パリ万国博覧会の意匠を担当したりと、華やかな活動が続き、レジオン・ドヌール勲章を得るまでに成功しました。
 こうした活躍のイメージが強いためか、ミュシャはグラフィックデザイナーとして認識されていますが建築のデザインでも優れた業績を残しています。その現物の一つがパリのカルナヴァレ美術館にあります。正式名カルナヴァレ・パリ歴史美術館は、数あるパリの美術館の中でもチョット変わった美術館で、20世紀初頭にパリを花の都たらしめた文物、絵画、写真などが多数所蔵されています。
 この、カルナヴァレ美術館の奥にひっそりと、ミュシャのデザインしたジョルジュ・フーケ宝石店が原寸移築されています。フーケは1901年コンコルド広場とマドレーヌ寺院を結ぶロワイヤル通りに店舗を構える際にミュシャにデザインを頼みました。しかしながら、店舗経営は上手くいかず、1923年には取り壊されましたがフーケは部材を保存しており、1938年に全ての部材がカルナヴァレ美術館に寄贈されました。
 この空間はまさしくミュシャの三次元空間で、至るところがミュシャの意匠で飾られています。三葉虫のようなガラスケース、アラベスクな床タイル、凝った鋳物部品など見飽きることがありません。後にデザインして、大成功を納めたプラハ市民会館の原点がここにあります。
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 岩崎小禰太が冬の別荘として建築した「熱海陽和洞」は、箱根外輪山から連なる山並が相模湾に急傾斜で落ち込む寸前の丘陵上に位置しており、地元では「岩崎さんのお屋敷」と呼んでいます。
 門を入ると急傾斜の道が新幹線や東海道本線をかわすように曲折し、四百メートル程進むと鬱蒼たる竹林に至ります。約四千本の孟宗竹が植えられていますが、仰ぎ見る急斜面の竹林には京都や越前辺りでも見ることができないほどの雄渾さが感じられます。
 竹林に埋もれそうなトンネルを抜けると、異形ともいえる屋根意匠が目前に展開し、初めて訪れる者を驚かせます。時代を経た瀬戸釉薬瓦が放つ鈍い光、葺き下ろしてきた主屋の屋根は一階車寄せ屋根と一体化され独特の形態感で迫ってきます。
 建物は一見積石造に見えますが、実際は鉄筋コンクリート構造。裾廻りは躯体の上に真鶴産六ヶ村石を貼り巡らし二階外壁は木目を浮き立たせた特殊型枠コンクリートによる化粧構造材で飾られています。この木目仕上コンクリートは一階ホール天井などにも多用されていますが、遠目には時代を経た良質の木材と見分け難いほどの精巧さです。
 また、小禰太の本質を求める気風に応じ、例えば浴室扉や照明器具カバーの硝子類はドイツからの輸入品が使われています。この硝子類や壁紙、個室の家具意匠などはすべてアール・デコ調で統一されていますが、主寝室や客用寝室・前室のデコ風壁紙は驚くばかりの美しさを今に保っています。
 浴槽はイタリア産紅花崗岩の一枚板をくり抜いた深さ70cm・直径約2mの楕円型。加水による温泉有効成分の希釈を避けるため、源泉から汲み上げた高温湯をラジエーターで適温まで冷却し、浴槽底部から泉のように湧きあがらせる仕掛けが組み込まれています。
 インテリアは中心軸や部材の整合性を崩した複雑な割り付けが随所に見られます。崩し方が微妙過ぎて、余り効果を上げてはいませんが空間に多様性を与えるのに巧みであった中條精一郎(曾禰中條建築事務所)らしい設計と言えます。
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 ロマネスクという言葉はそれほど古いものではありません。ロマネスクの建築そのものは10世紀から12世紀に造られましたが、それらを包括的にあらわすロマネスクという言葉は1900年代になってから使われるようになったのです。つまり、1900年代になってから様式として認められたということです。
 ロマネスクの建築は、端正なギリシャ・ローマ建築とロマネスク以降、華麗に花咲いたゴシック建築の間に存在する奇妙な様式です。
 ロマネスク様式は修道院・聖堂・教会に多く見ることができます。当時のヨーロッパ社会は農業の発達によって余剰生産物を得るようになり、人口が増大し、市民も巡礼などにでかけるようになります。
 こうした巡礼路に多くのロマネスク聖堂や寺院が残っています。有名なサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼に向かうヨーロッパ各巡礼路にも多くのロマネスク建築が残っています。
 ロマネスク建築の特徴は民俗信仰と結びついた柱頭飾りやタンパン(入り口上部の飾り板)彫刻、外壁のロンバルディア帯飾りにあります。奇っ怪な、時にはユーモラスなそれらの彫刻や飾りは円空仏のように荒削りの面白さがあります。また、巡礼路教会には巡礼者のアトラクションとなるべき聖なる遺骨や遺品がおかれたクリュプタ(地下礼拝堂)という興味深い空間もあります。
 ロマネスク建築はその建築素材をすべて地元で採れるものに限っているため、砂岩が採れる地域では砂岩が、花崗岩が採れる地域では花崗岩が、石が採れない地域では煉瓦などが使われ、はっきりとした地域性を持っています。ゴシック教会などでは権力にものを言わせ遠くから大理石や高価な建材を取り寄せ使用したのとは大きく異なっています。
 山間僻地に多い、地元信仰と結びついたロマネスクの建築を訪ねるのは容易ではありませんが、建築好きの方には是非訪れて頂きたいものです。
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 ヴィトリーヌとはウィンドウディスプレイのことです。北部ヨーロッパは冬が長く、暗い日々が多いため散歩の愉しみはお店が趣向を凝らしたヴィトリーヌを見て歩くという人も少なくありません。お店の側はクリスマスから1月後半に入って行うバーゲンセールへの効果を狙って年末年始のヴィトリーヌは特に力が入ります。パリのフォーブルドサントノーレ通りは有名ブランドショップが軒を連ねている所ですが、毎冬ごとに質の高いヴィトリーヌを見ることができます。20051月時点、シャネルはマリンブルーをテーマカラーにした船旅のイメージです。
 いっぽう、向かい側のエルメスは非常に芸術性の高いヴィトリーヌです。8つほどのコーナーは各々に大きなイブ・クレールの絵を背景に使い、色遣いや絵のテーマに合わせて商品が展示されることによってテイストの異なるイメージを提示しています。
 この背景の絵を描いたイブ・クレールは1947年生まれで、最初は写真の勉強を始めたのですが、20歳過ぎからは絵の勉強を行いながら医学の勉強も同時に行い、最初のイラストは医学雑誌に掲載されました。その後有名な週刊情報誌「パリスコープ」や「Autrement」誌等に多くのイラストを発表しながら大学に進み、34歳の時にパリ第7大学を卒業しました。ルネッサンス絵画のような絵の質感とマタドール(闘牛士)の帽子を膨らませたような人物像は独特の絵画的世界を持ち、フランス国内のみならずロシア、メキシコ等でも展覧会が開催されています。
 お店のショーウィンドウという小さな空間に、そのお店の商品コンセプトと美しさ、楽しさを盛り込む事にかけて、フランス人には一日の長があるようです。シャネルやエルメスのような世界的なブランドではない小さなお店でも、ユーモアや楽しさ、ウィットのあるヴィトリーヌを多く目にすることができます。
 また、模様替えも比較的短いサイクルで行われ、店員さんが狭いウィンドウに挟まれ、もがいているというような、別の意味でユーモラスなヴィトリーヌも目にすることがあります。
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 チェコ・ブルノ市内の公園に隣接した小高い丘の上にチューゲントハット邸は建っています。建てられたのは1928-1930年で設計者はミース・ファン・デル・ローエです。
 ミースは1886年ケルン近くの街アーヘンに石工の息子として生まれました。工芸家ブルーノ・パウルの弟子となり、その後P.ベーレンスの事務所に入ったのち独立。「鉄とガラスの高層建築案」などを発表します。1926年ドイツ工作連盟の会長となり、1930年にはデッサウ・バウハウスの校長に就任します。第二次大戦前にアメリカに渡り、1944年にはアメリカの市民権を得てアメリカに居住し、1969年に亡くなりました。
 ミースの言葉で最も有名なものは Less is More ではないでしょうか。この言葉はミースのインターナショナルスタイルを的確に表現しているとも言えます。ミースは鉄とガラスという素材を最も現代的にデザインした最初の建築家です。鉄とガラスという素材だけで見ればロンドンのクリスタルパレスやパリのグランパレなども立派な鉄とガラスの建築ですが、ミースは空間を鉄とガラスを用いた抽象的なシェルターとしてデザインしたのです。
 壁などはその抽象性を阻むものとして極力取り除かれます。空間は間仕切りや家具などで緩やかに仕切られつつも大きな一つの連続性の中にあります。ミースはこの連続性をユニバーサルスペースと呼びました。鉄とガラスという、どこでも手に入る材料と抽象的な空間構成、これが世界のどこに建てても成り立つという意味でインターナショナルスタイルと呼ばれたのです。
 このインターナショナルの代表作がチューゲントハット邸です。道路側からは平屋に見えますが、庭園側から見ると2階建てです。居間の庭園側には巨大な連続するガラス窓が設けられ、このガラス窓は下方にスライドして地下部分に収納され、リビングは外部空間と一体化します。構造体の鉄柱はクロームメッキされたカバーで覆われ、元々細い柱が更に細く、存在感が希薄になるようデザインされています。家具や空間構成など、世界遺産チューゲントハット邸にはミースの建築哲学が余すところ無く注ぎ込まれています。
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 ウィーン随一の繁華街ケルントナー通りをオペラ座方面から進み4つ目の角を左に曲がって数メートル先に間口4メートルほどの小さなバーがあります。二段の看板が掲げられ上にはアメリカンバー、下にはケルントナーバーと書いてあります。下の看板は星条旗を模したデザインで、いささかウィーンには似つかわしくない佇まいですが、このバーこそ建築使徒が訪れる聖地の一つなのです。
 バーの広さは正味10坪程ですが、思いのほか広く感じます。それは天井の周囲に張り巡らされた鏡と石材を薄く削いで張った壁面による効果です。鏡は見上げたときに、隣室があるように視覚を錯覚させ、壁面は透過性を持っていて広がりを感じさせます。小さいながらも凝縮した独特の空間性が感じられます。
 ウィーンの人々はこのバーを設計者にちなんでロース・バーとも呼びます。設計者アドルフ・ロースは1870年12月10日チェコのブリュン(ブルノ)に生まれます。父親は石工職人で、幼児期〜少年期を通じて、あらゆる職人の手仕事の精神を学びます。
 ドレスデン工科大学で三年間建築を学んだあと、1893年アメリカに住んでいた叔父を頼って旅行します。ロースはこの旅行を通じて新興国アメリカが持つ合理性、過去に縛られない自由な空気を感じるのです。それは因習と伝統が支配するウィーンの工芸や建築のあり方に疑問を持つことでした。そして、装飾によって隠蔽された近代の精神を摘出する言葉「装飾は罪悪である」というテーマの論文を発表し、論争を巻き起こします。
 この言葉は装飾によって隠蔽された欺瞞性を指摘したものであって、装飾そのものを否定したワケではないのですが、意味もなく装飾を好んでいた当時の保守的なアカデミーからは猛反発を受け、公私に渡ってさまざまな妨害に会います。しかし、デザインすることを決してあきらめず、今日でも古びることのないシンプルで素材感を重視した作品を数多く残しています。
 ロースのデザインした、底面のカットが美しく光を反射するタンブラーは建築家御用達の逸品で現在も生産・販売されており、亡くなった宮脇檀氏や活躍中の磯崎新氏も愛用されています。
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 1945年ファミリー企業としてブリオンベガ社は創設されまました。第二次大戦後のテレビ時代到来の波に乗った同社は、そのプロダクツを常にデザインという意識を持って製品を作りました。
 1960年代からはマルコ・ザヌーソ、リチャード・サバー、マリオ・ベリーニといったインダストリアルデザイン界を代表するデザイナーを起用し、優れたデザインの製品を世に送り出したのです。その、傑作とも言える製品がAlgol-70です。少し上を向いたスリークなデザインはその後のインダストリアルデザインに大きな影響を与えています。数々の優れたデザインを生み出した同社も、ファミリー企業の弊害からか1992年別の企業に買収され終焉しました。
 同社が最盛期であった1960年代末にブリオンベガ家の霊廟がヴェネツィア近郊の町トレヴィソに建設されました。設計はカルロ・スカルパです。スカルパは1906年にヴェネツィアに生まれ、王立ヴェネツィア美術アカデミー卒業後はヴェネツィア建築大学に勤務しながら多くの設計を手がけました。そのデザインは繊細なディテールと大胆な空間構成にあり、日本でも多くの建築家が影響を受けており、現在も人気の高い建築家です。
 デザインにこだわったブリオンベガ家の墓地を、イタリアを代表する建築家が設計したものがブリオンベガ霊廟です。ここではコンクリートをあたかも木材のように使い、まるで工芸品のような表情を持たせています。また、各所に設けられた池や水路はこの霊廟のテーマの一つが「水」であることを感じさせます。秀逸なのは通路を仕切るガラスのパネルです。通常ガラスは通路を横切る水路に没していますが、ワイヤーと滑車を使った装置によって2メートル近く引き上げられ、通路を仕切る役目を果たします。長い間水に没しているガラスは苔や水草の死骸が付着し、引き上げられ通路を塞いだ状態では一種異様な情景になります。そこには死というものの一つのイメージが提示されているようです。
 1978年日本へ講演旅行に来ていたスカルパは残念なことに仙台で客死します。ブリオンベガ家と関係の深かったスカルパの墓は息子がデザインし、この霊廟の一隅にひっそりとあります。
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 ベネチアという街はもちろん魅力的で飽きない街ですが、そのベネチアの回りにも魅力的な小さな街が沢山あります。例えば トレヴィーゾ、アーゾロ、バッサーノ・デル・グラッパ、マロスティカなどです。 バッサーノ・デル・グラッパは最近のイタメシブームで知られるようになった街で、食後に飲む「グラッパ」の名産地です。
 グラッパは葡萄の枝や皮、絞りかすを原料にした蒸留酒ですが、実にエコロジカルなお酒なのです。葡萄畑でつみ取られた葡萄は実を搾ってジュースを取り出し、ジュースはワインの原料になります。残った枝や皮に水を注ぎ再度圧縮機にかけ、ジュースを絞り出します。この搾り取った二番絞りジュースを発酵させワインらしき「どぶろく」をつくり、これを蒸留して得たアルコール度の高い無色透明の液体がグラッパの原酒です。この原酒を寝かせて熟成させグラッパができるのです。圧縮機の中に残った、煉瓦状に固形化した枝や皮は取り出し乾燥させ、蒸溜するときの燃料とされます。そして、燃焼して残った灰は、肥料として葡萄畑にまかれるのです。まさに、輪廻転生のようなお酒がグラッパなのです。
 さて、その バッサーノ・デル・グラッパの隣町にアーゾロという街があります。ベネチアから北西に60Km、標高120mの丘陵地のてっぺんにアーゾロの小さな街があります。ローマ時代から造られた街ですが、中世の街並みが時間が止まったように保存されています。アーゾロは古くからベネチアの貴族たちの別荘地として栄え、ベネチアの文学家ピエトロ・ベンボ、画家のジョルジョーネ、19世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニング、20世紀の女流作家フレイヤ・スタルク、ヘミングウェイなどが愛した街です。とくにキプロスの王女カテリーナ・コルナーロは1437年にキプロス島をベネチアに譲渡し、代わりにアーゾロを得たほどこの地を愛したようです。現在でもベネチアの上流階級はアーゾロに別荘を持つことをステイタスにしており、街の物価や小綺麗な商店、高級ホテル「プリチンペ」があることからもそれは窺えます。
 街はマジョーレ広場とドゥーモを中心に広がっていますが、一時間もあれば優に見て回れるほどの小さな街です。商店街はポルティコ(アーケード)でつながっており、高級そうな品物が目に付きます。年一回、9月第三日曜にはパーリオ(街で行う競馬)が行われます。町民は中世の衣装を身にまとい街全体が中世に戻る一日です。
Alvar Aalto
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フィンランディアホール
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アトリエ
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リビング
 1900年代前半、北欧諸国では巨匠と呼ばれる建築家を多く輩出しました。デンマークのヤコブセン、スウェーデンのアスプルンド、フィンランドのアールトやサーリネン父子などです。のちに北欧の巨匠たちは工芸運動が終焉を迎え、インターナショナルスタイルが拡大する時代に活躍し「ノルディックスタイル」という世界的なデザインのトレンドをつくり出しました。
 1900年初頭のヨーロッパは産業革命が終わり、飛躍的に工業製品の生産力が高まっていた時代です。古典的で装飾過多なクラシックからモダンへ移行する時期でした。しかし、実際の製品は古典的な装飾を単に工業製品にしているだけで、デザインという意識はなく、巷には粗悪なデザインの製品であふれていました。そのような時代に手仕事の意味を見直し、誠実で実直なデザインを求める工芸運動が、ヨーロッパ各国で起きました。ドイツでは「ユーゲントシュティール」、英国では「アーツ&クラフツ」フランスでは「アール・ヌーヴォー」と呼ばれたものです。これらの運動は第一次世界大戦が始まった。
 1914年に終焉し、ドイツの「バウハウス」を中心に、国民性や地域特性を持たないインターナショナルスタイルへと転化していきます。今日、私たちがモダンデザインと感じるものは、このインターナショナルスタイルの軸上にあるものです。
 1919年ロシアから独立して共和国となったフィンランドは古典主義的なデザイン(ナショナル・ロマンティク様式)に回帰してしまい、モダニズムの芽はいったん成長が止まります。ドイツやフランスで起きたモダニズムの波はフィンランドにも押し寄せ、サーリネンのナショナル・ロマンティク様式に立脚したデザインは、モダン派建築家フロステルスなどから強い批判を浴びるようになります。
 1898年クオルタネ(フィンランド中西部)で生まれたアルヴァ・アールトはサーリネンを批判したフロステルスに学びます。1925年にはバウハウスが設立され、更に大きなモダニズムの波が伝わります。そのような時代に事務所を開いたアールトは、成長が止まっていたモダニズムの芽を育て、開花させていきます。アールトもヤコブセンと同じく、家具、照明器具、ドアノブに至るまで細かくデザインを行います。そのデザインはヤコブセンが工業化を前提としたのに対し、アールトは工業を使いながらもあくまでも手工業的です。例えば最後の作品となったフィンランディアホールの外壁は、真っ白い大理石のパネルが壁一面に張り巡らされていますが、良く見ると一枚のパネル(幅90センチ・高さ45センチ程度)は微妙に湾曲し、中央部で5ミリ程度ふくらんでいます。ボリューム感だけを強調するのではなく、ふくらみによって生まれる陰影はヒュー マンスケールに呼応し、暖かみを感じさせます。
 アールトのデザインはいったん機能的に突き詰めた後に、そのデザインを再構成しながら人間味、暖かさ、優しさを加えていった点が最大の魅力です。1903年〜少年時代を過ごしたフィンランド中部ユヴァスキュラ周辺とヘルシンキには数多くの作品が残っています。
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 最近のデジタルカメラブームでは先ずは、撮像素子の画素数競争が先行しており、年々素子の画素数が上がっています。一般の方がA4用紙程度にプリントするには600万画素もあれば充分ですが、車の馬力性能競争宜しく、メーカーと販売店は一向に画素数の多寡をあおることを止めようとしません。画素数を無理に上げればノイズが発生し、画像のクリア感が損なわれるのですが、相変わらず初心者に判りやすい画素数という「数字」で勝負しています。
 画素数に加え付加価値としてレンズのブランドバリューを訴求するメーカーもあります。その、ブランドとして最も多く利用されているのがカール・ツァイスレンズです。
 カール・ツァイス社はカール・フリードリッヒ・ツァイスによって1846年旧東独イエナで生まれました。イエナの街はゲーテ街道の中心地ワイマールに隣接していますが、一般的な観光資源に乏しくカメラ好き以外には興味を持たれない街です。
 カール・ツァイスを語るときにエルンスト・アッペ(1840-1905)の業績を避けることはできません。数学と物理に長けていたアッペは光学ガラスの専門家フリードリッヒ・オットー・ショットの協力を得て優れた光学レンズをたくさん生み出しました。それらは顕微鏡、望遠鏡、カメラ用レンズ、メガネレンズなどを通じてカール・ツァイスの名を世界に知らしめたのですが、アッペは経営者であると同時に社会運動家の側面も持っていました。
 当時は英国のニューラナーク紡績工場などでも同じことが起きていましたが、ロバート・オーウェンなどによる社会主義運動の影響を受け、劣悪な労働環境を改善して、企業の利益を社会に還元するという、シンプルなユートピア思想が広まっており、アッペも又カール・ツァイス財団を設立して、労働環境の改善や資本家による利益の独占を排除したのです。安定した労働環境は労働者や研究者の勤労意欲を向上させ、優れた製品を生み出すことになります。
 その優れた製品の一つに、パウル・ルドルフが発明したテッサー(TESSAR)タイプのレンズがあります。これは合計4枚の凹レンズと凸レンズを巧みに組合せ、レンズ長が短く光学特性に優れたレンズで、近代レンズの基礎となった技術であり、現在のカメラ用レンズはTESSARから始まったと言われています。
写真はTESSAR 2.8/50 にて撮影。アッペ廟はヴァン・デ・ヴェルデの設計。

Wiener Architectural Guide

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Steiner House(シュタイナー邸) 設計: A.Loos 1910年 場所: Linzerstraße
建築規定によって、マンサード屋根の平屋しか許されなかった地域です。ロースは道路側に半筒型の金属屋根と庭側のフラットルーフでそれをクリアしました。一時、全く異なるデザインに改悪されていましたが、先頃外構を含め全くのオリジナルデザインに戻されました。現在見れば何の変哲もないデザインですが、ロースの基本的な設計思想は全て盛り込まれています。
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Moser Moll House(モザー・モル邸)設計: J.Hoffmann 1902年 場所: Steinfeldgasse
1909-11。ヨーゼフ・ホフマン設計。僅かな変更だけで、原型を良く残しているこの建物は建設業者アスト氏のために建てられたものです。 ホフマンが古典的なものに傾倒していた時期の最後の作品で、穏やかで抑制されたデザインは初期のものとはかなり変わってきています。この優雅で質の高いデザインはホフマンが設計した個人住宅の中で最も良いものの一つです。
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Moll House 2(モル邸2)
設計: J.Hoffmann 1907年 場所: Wollergasse

軒先の市松模様のデザインが特徴の可愛らしい住宅です。この時期に於いても相変わらず英国別荘風のイメージを持ったデザインですがビーダーマイアーと古典様式の要素が強く出ています。当初、丸い屋根のデザインでしたが施主の拒否によって実現しませんでした。
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Villa Vojcsik(ヴォイシク邸)
設計: O.Schönthal 1901年 場所: Linzerstraße

ワグナーの弟子であったシェーンタールは、ワグナー設計の多くの重要な設計に携わった。ファサードの装飾など典型的なユーゲント様式の建物です。
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Steinhof Church(シュタインホフ礼拝堂)
設計: O.Wagner 1907年 場所: Baurmgartner Höhe

大きな精神病院の中にある、患者のための教会。教会の他にもワグナーが設計した患者用の劇場などもあります。内部はステンドグラスをコロマン・モザー、家具をウィーン工房などワグナー派の面々が協力しています。
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Purkersdorf Sanatorium(プルーカスドルフサナトリウム)
設計: J.Hoffmann 1904年 場所: Purkersdorf

精神病患者向けのサナトリウム。ウィーンに数多く残るホフマンの公共建築の中でも最も重要な建物の一つ。建築要素を立方と平面という要素に分解することによってデザイン的な特徴を得ています。最近、改修され増築部分なども撤去されオリジナルに戻されました。
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MAK(オーストアリア工芸美術館)
場所: Stubenring

工芸全般に関する展示のほかに、現代アートのイベントも頻繁に行われる美術館です。中にはウィーン工房の充実したコレクション専用室があり、一見の価値があります。
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Kerlzplatz Pavilion(カールスプラッツパビリオン)
設計: O.Wagner 1899年 場所: Karlsplatz

ワグナーはウィーン環状鉄道36の駅舎、高架橋等の設計を行っていますが、二つのカールスプラッツパビリオンは、ワグナーが設計した他の地下鉄駅シリーズの類型を保ちながらも、非常にユニークなデザインです。フレームの鋳物には2crn厚の大理石平板がはめ込まれ、裏面は5cm厚の石膏パネルが貼られています。現在、駅舎としては使われていません。
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Engel Apohteke(エンジェル薬局)
設計: O.Laske 1907年 場所: Bognergasse

オットー・ワグナーの弟子オスカー・ラスケの設計によるユーゲントシュティールスタイルの薬局。入り口の左右にある天使を描いた模様が有名です。ラスケはその後、建築をやめ、絵画やグラフィックデザインに専念しました。窓のリズム感や外壁レリーフの意匠は良き意味のユーゲントシュティールパターンを見せています。
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URANIA(ウラニア)
設計: M.Fabiani 1910年 場所: Uraniastraße

劇場やカフェなどが入った複合建築物です。ドナウ運河の脇に立つ建物は特異な立面デザインで、ウィーン旧市街入り口のメルクマールになっています。
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Postal Saving Bank(オーストリア郵便貯金局)
設計: O.Wagner 1912年 場所: Georg-Coch-Platz

中央の現金窓口のあるホールはワグナーの代表的な空間。必見の建物です。使われている素材は、アルミニウム、ガラス製のブロックなどほとんど現代の材料。構造上の特徴、特にボルトで固定された大理石平板等は、ワグナーの建築哲学である「必要性、機能、構造と美しさの感覚の調和」が良く表現されています。ワグナー設計の家具も見ることができます。
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Medalion(メダリオンハウス)
設計: O.Wagner 1899年 場所: Linke Wienzelie

建物の金メダルはコロマン・モザーのデザイン。ワグナーはこうしたデザインの建物を連続させて街並みを造ろうとしていました。最近、修復され、美しい外観が再現されました。
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Majorca(マジョリカハウス)
設計: O.Wagner 1899年 場所: Linke Wienzelie

ユーゲントシュティール柄のマジョリカ産タイルを張った建物を中心に、2連のアパートメントがあります。ワグナーは建物の個性をバルコニー、軒蛇腹、オフセットした角部などによって表現しています。
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Cafe Museum(カフェ・ムゼウム)
設計: A.Loos 設計年次: 1898年 場所: Kerntner

ウィーン工房華やかなりし頃、文化人やジャーナリストが多く集まり熱い議論を戦わせた由緒あるカフェです。一時は見る影もなく荒れていましたが、最近改修されオリジナル設計図面に基づいて内装から家具・小物に至るまでリビルトされました。2010年再度改修が行われカフェラントマンの傘下に入っています。
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Secession(セセッション)
設計: M.Olbrich 1898年 場所: Friedrichstraße

オットー・ワグナーの弟子であるJ.M.オルブリッヒによって造られました。ゼセッシオン運動の記念碑的な建物です。美の神殿とも言える建物はワグナーとクリムトに影響され、アルカイックな優しさとモダンな機能性が上手く統合されています。地下室にはクリムトの作品ベートーヴェンフリーズの常設展示があります。
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Cafe Griensteidl(カフェ・グリーンシュタイドル)
場所: Michaelerplatz

ウィーンには多くの老舗カフェがあり、カフェ文化を支えてきましたが、その一つがこのグリーンシュタイドルです。シュニッツラーやホーフマン・スタールなどが通ったことでも有名です。
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Loos House(ロースハウス)
設計: A.Loos 1911年 場所: Michaelerplatz

王宮のミヒャエル門とミヒャエル教会に対峙する建物。装飾に関してウィーン中の議論を呼んだ作品です。ロースは「古いウィーン表現様式ファサード」を否定すべく全てのデザインを行っています。現在は銀行として使用されているので営業ロビーまでしか入れませんが、当時のままに復元されています。現在見れば決して非装飾的とは言えず、むしろ、贅沢な素材の使い方に驚かされます。
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Tenement Houses(賃貸住宅)
設計: O.Wagner 1912年 場所: Neustiftgasse

ブルーのタイルとアルミ素材を生かしたエントランスドアのデザイン、化粧ボルトを使った外観は郵便貯金局と同じ、モダンワグナーを感じさせます。とくに、ドアのデザインは秀逸とも言える納まりです。
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Serres Imperials(王室庭園)
設計: F.Ohmann 1907年 場所: Burggarten

現在、温室(熱帯蝶の放し飼いあり)は左翼の一部が使われており、メインのスペースはオシャレなカフェレストランになっています。
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Pilgram Gasse(ピルグラムガッセ駅舎)
設計: O.Wagner 1898年 場所: Pilgram Gasse

ウィーン谷線の修復工事として建てられた低く平らな駅舎はウィーン谷〜ドナウ運河線のバリエーションとしては、ごく普通のものです。これらの駅舎は正方形のプランを持ち、中央に切符売り場が配されています。現在も駅舎として使われています。
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Vorwärts(フォルヴェルツ出版社)
設計: H.Gessner 1905年 場所: Rechte Wienzeole

ワグナーの弟子であったゲスナーが設計したこの建物の特徴はゲーブル(妻面)に現れています。ユーゲント様式を踏襲しながら表現主義的な力強さを加味しています。
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Villa Wagner 1(ワグナーヴィラ1)
設計: O.Wagner 1888年 場所: Huttelbergstraße

ワグナーはルネッサンススタイルをイメージしながらパラディオのデザインを取り込んで夏の別荘を設計しました。正面の柱列にはパラディオ風のセルリアーナも見られます。現在はシュールな画風で知られるエルンスト・フック氏がウィーン市から借りています。
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Cafe Rüdigerhof(リディガーホフ)
設計: O.Marmorek 1902年 場所: Hamburgerstraße

設計者のマルモレクはポーランドで生まれ、青年時代シオニズムに深く傾倒しました。建築家としてよりは世界シオニスト組織委員長として名をはせた異色の建築家です。
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Amalien Baths(アマリエン温泉)
設計: O.Nickel 1926年 場所: Reumannplatz

完成当時、1300名が同時に入浴できるヨーロッパ最大の温泉でした。プールには10mの飛 び込み台があり、明るいガラス張りの天井になっています。デザインは全体として抑制され た表現主義になっています。
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Loos Bar(ロース・バー)
設計: A.Loos 1908年 場所: Kärtner Durchgang

親密な雰囲気のバーは驚くほど狭い。4,45 x 6,15メートルの空間は、設計によって視覚的な 広がりを見せる例として、ロース作品の中でも有名です。世界中の建築の使徒が一度は訪れ るバーです。外部からの光は蛇紋岩の平板、大理石に濾過され、内部の鏡に反射します。木部のマホガニーは重厚さを醸しロースの素材選択眼が遺憾なく発揮された空間です。
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Schützenhause(水門監視人の家)
設計: O.Wagner 1907年 場所: Obere Dnaustraße

ドナウ運河の治水事業の一環として設計されました。移動式のクレーンと二つの住居、ガラス張りの監視塔で構成されてたシンメトリカルな建物。基礎回りが花崗岩、壁部分は白大理石のパネルがワグナーお得意のボルト納まりで取り付られ、壁上部にはドナウの波模様をデザインしたコバルトブルーの美しいタイルが巡らされています。
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Central Saving Bank(Z銀行)
設計: A.Loos 1914年 場所: Mriahilferstraße

営業室に隣接する高さ9メートルの異常とも言える重厚感を持つ花こう岩の入口は、1970年に再発見されました。初期のスケッチでは現在の入口よりも更に大きなスケールで計画されていたようです。内部はガラス天井によって明るい雰囲気になっています。コントラストを主張する家具調度とグレーのグラデーションで変化するインテリア。現在も銀行の営業店舗として使われています。
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Zacherl Building(ツァッヘル・ビル)
設計: J.Plecnik 1905年 場所: Brandstätte

プレチェニクは施主の設定した設計コンペ(1900年)をワグナー派の建築家たちと競い、この仕事を得ました。新世紀を迎え、都市型のビジネスビルを建てるについてウィーンの人が議論した結果の典型的な例です。外壁は濃いブルーグレーの花こう岩平板が貼られています。最も面白い空間はレンズ型に造られた階段室。建物頂部の屋根もプレチェニクらしいデザインです。
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Cafe Frauenhuber(カフェ・フラウエンウーバー)
場所: Hinmelpfort

ケルントナー通りから枝道を少し入った場所にある、静かなカフェです。観光客が少なく、古い時代のカフェの雰囲気を今に残しています。ケルントナーでお買い物の後に最適のカフェと言えます。
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Orendihof(オレンジホフ)
設計: Arthur Baron 1910年 場所: Fleischmarkt

設計者のバロンはハンガリー系ユダヤ人商人の子供としてウィーンに生まれました。このオレンジホフは別名レジデンス・パレスと呼ばれる複合建築で、事務所・住宅・店舗・映画館や劇場が入っています。カーテンウォールの外壁が特徴です。
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Gasometer(ガソメーター)
設計: F.Kapaun/Jean Nouvel/Coop Hinmelbrau 1899/2001年 
場所: Gasometer

この構造物は19世紀に築造されたガスタンクです。ウィーン市はこの近代産業の遺構を取り壊すことなく保存するために、コンバージョン計画を進めました。住宅、ショッピングセンター、オフィス、劇場、レストランなどを含む一大複合施設です。「ガソメーター」という愛称で市民に親しまれています。コンバージョン住宅の事例としては世界的にも有名な施設です。
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Equitable Palace(旧ニューヨーク生命保険会社)
設計: A.Streit 1891年 場所: Stock im Eisen Platz

シュテファン寺院広場に建つ「ジャーマン・ネオ・バロック」様式の建物です。ガラス張り天井のあるの中庭と凝った階段が特徴です。
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Cafe Central(カフェ・ツェントラル)
場所: Herrengasse

ウィーンでもっとも有名なカフェです。オリエント風の天井の高いインテリアは長い時間居ても気持ちよく過ごすことができます。お値段は安くありませんが、それに見合った雰囲気とサービスです。
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Villa Wagner 2(ワグナーヴィラ2)
設計: O.Wagner 1913年 場所: Huttelbergstraße

夏の別荘に隣接して建てられたワグナー最後の家。二つの建物を見ることによってワグナーのデザインに対する考え方の変化を如実に知ることができます。玄関上部にはモザーのステンドグラスがはめ込まれています。窓回りのワグナーがよく使った、濃いブルーのタイル意匠や謹厳な外観はユーゲントシュティールのメソッドを良く現しています。鉄筋コンクリート構造。
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Stattbahn Court(シェーンブルン皇帝専用駅)
設計: O.Wagner 1898年 場所: Schönbrunner

皇帝が使うためだけの駅。ワグナーが設計した地下鉄駅の中で、最も丹念に作られた駅です。大きいドームの下には待合い室があり、皇后エリザベスの好んだ植物柄の絹の刺繍で装飾されています。1987〜88年に修復され、現在はシュタットバーンミュージアムとして使われてワグナーの資料も展示されています。
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Karl Marx Hof(カールマルクスホフ)
設計: K.Ehn 1930年 場所: Heiligenstädter
道路に沿って壁のように連続する集合住宅。長さ1km、1382戸の住戸があります。当時、ウィーンの一般労働者の住まいは、共同トイレがあるだけの狭いアパートに多くの家族が住むという劣悪な環境にありましたが、この集合住宅が初めて専用のキッチンやバスルームを持ちました。スーパーブロックとしてのボリュームと明快な2レイヤーの外観デザインが魅力的な建築です。
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Nußdorf Floodgate(ヌスドルフ水門)
設計: O.Wagner 1898年 場所: Nußdorf
ワグナーが携わったウィーン市改造計画の一環として建設されました。この水門がドナウ運河の出発点です。監視塔と鎖貯蔵所の建物で構成されています。 力強いデザインの閘門システムは柱の上にルドルフ・ヴァイルが作った咆哮するライオンの像でも有名です。
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Villa Primavesi(プリマベージ邸)
設計: J.Hoffoman 1913年 場所: Gloriettegasse
正面は新古典主義的なデザインで1914年ケルンで行われた工作連盟展の建物と似ています。玄関ホールは決して広くありませんが、階段を利用した空間構成と素材選択が秀逸です。玄関アプローチを通り抜けると高低差を上手く利用した東屋のある庭園があります。施主のプリマベージ氏はクリムトの強力なパトロンであり、ウィーン工房にも出資していました。
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Anti Aircraft Defence Tower(高射砲台跡)
設計: F.Tamms 1944年 場所: 市内各所
ウィーンにある6本の高射砲塔の一つ。高射砲塔は対で建てられて、ウィーンという都市の中で巨大な三角形を形成しています。ウィーンを観光するとこの異様な建物が嫌でも目にはいりますが、市当局も余りに厚いコンクリート壁を壊す予算が捻出できずそのままにされています。最近は博物館や展示場などへの転用も進められています。ホラインが初期プロジェクトにコラージュしたのも有名。
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Palmenhause(シェーンブルン大温室)
設計: F.Segenschmid 1882年 場所: Schönbrunn
パルメンハウス(大温室)は英国のキューガーデンから遅れること約40年後につくられたユーゲント様式のガラス建築物です。建物は3つのブロックからなり、地下には全長113メートルのトンネル状暖房装置があり、南国の植物に理想的な気温が保たれています。
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Stonborough Wittgenstein House(ヴィドゲンシュタイン姉邸)
設計: E & L. Wittgenstein 1928年 場所: Kundmanngasse
ヴィドゲンシュタインが姉のために設計した住宅です。姉の主人の名前をとって、ストロンボワ邸と呼ばれています。ヴィドゲンシュタインが哲学者の厳密性をもって設計したミニマルデザインの住宅です。
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Portois & Fix(商店住居複合ビル)
設計: M.Fabiani 1898-1900年 場所: Ungargasse
ファビアーニはスロヴェニアの裕福な農家に生まれ、ウィーン工科大学卒業後ヨーロッパを始めアジアに至るまで3年をかけて建築旅行を行いました。この建物はウィーンでもっとも美しいタイル張りの建物として知られています。
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Schulin & Retti(シュリン&レッティ)
設計: H.Holein 1974/1980年 場所: Kohlmarkt
ホラインが最初に建築したプロジェクトが右のレッティ蝋燭店です。ファサードもインテリアも継ぎ目を巧妙に隠したアルミパネルで覆われています。アルミという金属の柔らかさが感じられます。店舗内部は鏡が多用され思わぬ方向に視線が広がります。ロース・バーを思わせるテクニックです。
左のシュリン宝石店は既存の建物にうまくはめ込まれていいます。本物の大理石とボードに書いた大理石模様、節を取り除いた木質部、金箔をかぶせた工業用シートメタルなど、本物と偽物が混交して使われています。具体的な造形である大鎌のイメージは東欧諸国、特にハンガリーにおいてよく使われる造形です。
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Kunize(クーニッツェ洋服店)
設計: A.Loos 1913年 場所: Graben
グラーベン通りに面した、間口の極めて狭い高級紳士服店。重厚感のある黒い花こう岩上部パネルと円形柱状の対称的な壁は、顧客を心理的に引き付ける効果があります。細い櫻材で作られたディスプレイ・ケース は圧迫感が無く、狭い入口に開放感を与えています。一階店舗スペースからは想像できないほど奥が深く、3階のサロンは、設計当時の姿を良く残しています。
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Karl Seitz Hof(カール・ザイツホフ)
設計: H.Gessnar 1927年 場所: Jedleseersyraße
1173戸の住宅を擁するスーパーブロックは時計台を中心にして街区を展開しています。デザインテイストはアマリエン温泉によく似た、表現主義的な手法が用いられています。
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Strunlhof Steps(スツルンドホフ階段)
設計: T.Jäger 1910年 場所: Strundlhof
ウィーン旧市街から少し出た、北西の位置にあるユーゲント様式の階段です。上の道路と下の広場を階段状の公園でつないだデザインです。この階段の名前と同名の小説もあります。
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River Wien Buildings(運河公園建築群)
市立公園を横切る河岸遊歩道とオットー・ワグナーが設計したシュタットパーク駅との一体感が面白く構成されています。高低差のある東屋風の休憩施設の意匠を含め ユーゲントシュティール風のデザインです。リンク通りからヨハンシュトラウス2世像を見ながらアクセスするのも楽しいルートです。
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Crematory(葬祭場)
設計: C.Holzmeister 1923年 場所: Simmeringer
ホルツマイスターの名前を一気に高めた作品がこの葬祭場のデザインです。オリエントの雰囲気を漂わせるラフキャストの壁は、謹厳で寂しい葬祭場が多い中では際だった存在といえます。
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Beckgasse House(ベック通りの家)
設計: J.Plechnik 1901年 場所: Beckgasse
建物前面をバラの意匠を持ったレリーフで埋め尽くした住宅です。建設業者の依頼を受けて設計した住宅ですが、膨らみのあるサロンスペースや弓形で窓の配置など、秀逸なデザインです。
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Church of Holly Spirit(聖心教会)
設計: J.Plechnik 1913年 場所: Herbststraße
ウィーンで最初の鉄筋コンクリートで造られた教会。コンクリートという素材の持つマッシブな性質を良く活かしています。地下室の「キノコのような」と表される天井を持つ空間は、独特の宗教空間です。 自然主義的な装飾はすべてプレチェニクによるもの。

Nordic Architectural Guide

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カストラップ空港
日本では耐久性を考え、公共施設の床に木材を使う例は非常に少ないのですが、北欧圏では当たり前のようにフローリングが使われています。モノの耐久性よりも空間の優しさを優先したデザインです。
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ホテルDGI-Byen
このホテルはブラックダイアモンドと呼ばれるデンマーク王立図書館を設計したハンマー&ラーセンによるものです。日本のホテルの床は傷や汚れが目立たない絨毯が主流ですが北欧圏のホテルではフローリングが多く使われています。
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コペンハーゲン中央駅
最初に建設されたのは1864年。現在の形になったのが1911年。建物は市庁舎と対のデザインが用いられています。屋根の構造材は積層のアーチ梁で竣工当時のまま、百数十年を経ても現役です。バイキング船の構造をほうふつとさせます。
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SASホテルのAJライト
1959年このホテルにために設計されたスポットライトです。一階にあるカフェの柱周りに多用されています。上層階にある「レストランK」はヤコブセンインテリアの高級レストランですが、一階のカフェは気軽に入れるのでお奨めです。
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カフェ・ステリング
Cafe Stelling
ヤコブセン設計の「セブンチェア」が置かれたカフェ。1934年に完成した建物の設計もヤコブセンです。ヤコブセン好きのオーナーは照明器具から小物に至るまでヤコブセンデザインでそろえています。オープンラックには200冊の雑誌があり、自由に閲覧できます。ヤコブセンデザインの灰皿とランプ Gammeltorv 6
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SASロイヤルホテル外観
コペンハーゲン初の高層ビル(20階)で建築は1959年です。ヤコブセンは設計の全てを行い、建築・インテリア・設備・家具調度に至るまで全てにデザインを試みています。606号室は当時のままに保存されており宿泊も可能です。
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工芸博物館ヤコブセン展示室
常設展では20世紀初頭から今日までのデンマークデザインが展示されています。時代を経ても古びないデンマークデザインの秘密に触れることができます。ヤコブセン展示室には作品ごとに特徴的なインテリアアイテムが展示されています。デザイナー必見の博物館です。Bredgade68
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ガソリンスタンド
最近ヤコブセン設計のオリジナルに戻されたガソリンスタンド。コペンハーゲンから保養地のベルビュー海岸へ行く途中にあります。なんと言ってもユニークな形の庇が目を引きます。庇の薄いイメージとガラスブロックとタイルで造られた事務所の重量感のバランスが秀逸です。Kystvejen24,Skovshoved.Gentofte
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ヴィトレースク
ヘルシンキ西郊にあるサーリネンのアトリエです。サーリネンは友人達とここに大規模なアトリエを構えました。フィンランドの民家のような外観ですが内部はナショナルロマンティック様式があふれています。家具などもオリジナル品が展示されています。Hvittraskintie 166
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ヘルシンキ中央駅
1914年サーリネン設計。ナショナルロマンティック様式の代表的な建築です。外壁は赤っぽい御影石で重量感があります。アキ・カウリスマキ監督の映画「過去のない男」の冒頭シーンにこの駅が登場しています。
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ドラウアーの街並み
ニシン漁で栄えた古い漁師町。かつての漁港は現在ヨットハーバーになっていますが、300メートル四方の中に古い村がそのままの形で保存されています。可愛らしい街並みはゆっくり散歩するのに適しています。住人はコペンハーゲンに住む若い富裕層がセカンドハウスとして持つケースが増えているとか。ヨットハーバーに面したストランドホテルのオープンサンドも美味です。
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ZAZA
流行のタオルやアロマオイル、生活小物や家具を多く置いた人気店がZAZAです。地下は椅子やソファを集めたショールームになっています。Annankatu 23
北欧の家具や小物はナチュラルでクリーンなイメージがあり人気の高いインテリアアイテムです。このようなモダンデザインの源流はどこにあるのでしょう。この紀行は、その源流を探る旅です

1900年代初頭、北欧諸国では巨匠と呼ばれる建築家を多く輩出しました。デンマークのヤコブセン、スエーデンのアスプルンド、フィンランドのアールトやサーリネン父子などです。
時代的には古典的で装飾過多なクラシックからモダンへの橋渡しとなる時期です。当時のヨーロッパは産業革命が終わり飛躍的に工業製品の生産力が高まっていた時代です。しかし、デザインという面から見ると古典的でクラシックなデザインを単に工業製品にしているだけで、デザインという意識はありませんでした。巷には粗悪なデザインの工業製品であふれていたのです。
そのような時代に手仕事の味を見直し、誠実で実直なデザインを求める工芸運動が同時多発的にヨーロッパ各国で起きるのです。ドイツではユーゲントシュティール、英国ではアーツ&クラフツ、オーストリアではセセッシオン、イタリアではスティル・リベルテ、フランスではアール・ヌーヴォーと呼ばれたものです。
これらの運動は第一次世界大戦が始まった1914年に終焉し、ドイツのバウハウスを中心に、国民性や地域特性を持たないインターナショナルスタイルへと転化していきます。今日私たちがモダンスタイルと感じるものはこのインターナショナルスタイルの軸上にあるのです。北欧の巨匠たちは工芸運動が終焉を迎え、インターナショナルスタイルが拡大する時代に活躍し、ノルディックスタイルという世界的なデザインのトレンドをつくり出しました。これをデザインによる第二のバイキング時代と呼ぶ人もいます。

■ヤコブセン
アルネ・ヤコブセンはデンマークを代表する建築家でありインテリアデザイナーであり、プロダクトデザイナーです。広い範囲でデザイン活動を行っています。同時代のデザイナーにはハンス・ウェグナーも有名ですが、ウェグナーはあくまでもハンデュクラフトに徹した家具職人であるのに対し、ヤコブセンは総合的なデザインを行った点が異なっています。ヤコブセンは1902年コペンハーゲンに生まれました。先にも述べましたが、当時の一般家庭には量産化が著しい工業製品としての家具やドア、鋳物類が大量に入っていました。それらのデザインは一時代前の古典的なスタイルを単に工業化しただけというものが殆どでした。与えられた環境に反発するのは若者の常ですが、早熟なヤコブセンは、自室のインテリアを全て白いペンキで塗りつぶしたそうです。自室における物の形と空間の関係に不条理性を感じたのかも知れません。こうした考え方は終生ヤコブセンのデザインする態度として貫かれ、建築設計にあってもドアノブ一つに至るまで、自分でデザインしたことに現れています。当初は画家を目指しましたが、建築の総合芸術としての面白さに目覚め、22歳でデンマーク王立アカデミー建築科に進みます。時代はセセッションなどの運動が終焉を迎え、バウハウスを中心としたインターナショナルスタイルへの移行時期で、ワルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどが活躍を始め「産業デザイン」という言葉が生まれた時期です。一時代前の手工芸運動は工業と対立する考え方でしたがバウハウスのデザインは工業力を活かしながら、シンプルでモダンなデザインとしているのが特徴です。若いヤコブセンは自らの感性とも合致するバウハウスの影響を大きく受け、伝統的なハンディクラフトと産業デザインの融合を考えます。その代表的な家具に一つがアントチェアです。工業製品は直線的なデザインが得意です。片や手仕事の味は曲線的なデザインで発揮されます。薄い板は簡単に曲げることができます。曲げた板同志を何枚も接着していけば曲がった厚い板を造ることができます。これは積層合板という手法ですが、この曲がった板を切り抜けば、曲面を持った椅子の座を工業的に造ることができたのです。当初は曲面が完全には造れないため、補修部分を隠すために黒く塗装されていたのでアント(蟻)チェアと呼ばれたそうです。ヤコブセンの造形には常に手仕事を感じさせる曲線が用いられ、それが魅力にもなっていますが、その曲線は決して恣意的な曲線ではなく、型抜きや切削など常に工業的な手法を念頭に置いた物だったのです。ヤコブセンはデンマークのデザインが手工芸的な生産から工業的な生産に移行する時期に大きな影響を与え、今日でもその造形の魅力は衰えることがありません。

■サーリネン
1900年代初頭、北欧諸国では巨匠と呼ばれる建築家を多く輩出しましが、中でも異彩を放っているのがサーリネン父子ではないでしょうか。父親はエリエル・サーリネン(1873-1950)、息子がエーロ・サーリネン(1910-1961)です。父親はヘルシンキ中央駅の設計で、息子は米国ケネディ空港TWAターミナルやGM技術センターの設計で、それぞれ名を馳せました。1800年代が終わろうとする頃、ロシア帝国支配下のフィンランドで抵抗運動の一つとして民族主義運動が起こります。その引き金となったのが民謡を編纂した叙事詩「カレワラ」です。画家カレッラは「カレワラ」に基づく民族の自覚を絵画で訴え、この運動はナショナル・ロマンティズム運動と呼ばれました。ヘルシンキ工科大学を卒業したばかりのエリエルはカレッラの影響を強く受け、これを建築の設計に反映したナショナル・ロマンティシズム様式を確立させます。しかし、その様式は当時ヨーロッパで同時多発的に起きていた工芸運動であるアーツ&クラフツやセセッシオンの影響を強く受けたものでした。その集大成とも言える作品がヘルシンキ中央駅なのです。

■アールト
ドイツやフランスで起きたモダニズムの波はフィンランドにも押し寄せます。サーリネンのナショナル・ロマンティシズムに立脚したデザインはモダン派建築家フロステルス等から強い批判を浴びるようになりますが、1919年ロシアから独立して共和国となったフィンランドは古典主義的なデザインに回帰してしまい、モダニズムの芽はいったん成長が止まります。1898年クオルタネ(フィンランド中西部)で生まれたアルヴァ・アールトはモダン派建築家フロステルスに学びます。1925年にはバウハウスが設立され、更に大きなモダニズムの波が伝わります。そのような時代に事務所を開いたアールトはパイミオのサナチリウムやマレイヤ邸などの設計を通じ、成長が止まっていたモダニズムの芽を育て、開花させていきます。
アールトもヤコブセンと同じく、建築本体を設計するだけでなく、家具、照明器具、ドアノブに至るまで細かくデザインを行います。そのデザインテイストはヤコブセンのデザインが工業化を前提としたのに対し、アールトは工業を使いながらもあくまでも手工業産的です。例えば最後の作品となったフィンランディアホールの外壁です。真っ白い大理石のパネルが一面に張り巡らされていますが、よく見ると一枚のパネル(幅90センチ・高さ45センチ程度)は微妙に湾曲し、中央部で5ミリ程度ふくらんでいます。この微妙なふくらみの効果は絶大です。ボリューム感だけを強調するのではなく、ふくらみによって生まれる陰影はヒューマンスケールに呼応し、暖かみを感じさせます。アールトのデザインは、いったん機能的に突き詰めた後に、そのデザインを再構成しながら人間味、暖かさ、優しさを加えていったデザインのように思われます。

■人々の生活
北欧のデザインを見て思うことは「木」という素材へのコダワリです。家具小物から建築に至るまで、木という素材を常に意識したものが目に付きます。インテリアにあっても、床材はフローリングが当たり前ですし、壁面や天井にも木を効果的にあしらっています。日本も「木の国」でしたが、現在はどうでしょう。木造住宅と言っても安価に上げるために構造材に木材を使っているだけで、外壁も内壁も木材を包んで隠蔽してしまい、木造なのかコンクリート造なのか、鉄骨造なのか全く判りません。いっぽう、和風住宅は必要以上に木を強調し、一つのテイストしか許容しないような偏狭さがあります。日本の木造住宅も、そろそろフローリングだけではなく新しい木との交流を再発見しても良い時期に来ているのでは無いでしょうか。そして、その答えは北欧圏にあるのかも知れません。
北欧デザインのもう一つの特徴は光の扱い方です。冬季の光に乏しい北欧圏では、太陽に恵まれた我々と異なり、光がとても大切なのです。コペンハーゲン・カストラップ空港の南にドラヨーという小さな村があります。歴史保存地区に指定されリフォームや新築の場合、外壁材や屋根材・窓などはそれまでと同じものを使うよう義務づけられています。この村を歩いてみると家々の窓辺には必ずガラス製品が置いてあります。少しの光でも輝くガラス製品が窓辺にあるのは、光を大切に思う心のあらわれです。北欧に優れたガラス製品のデザインが多いのもこうした光への希求が背景にあるのだと思います。同時に照明器具についても光のことを良く知っている民族ならではの、繊細で優しいデザインが施され、モダンデザインの黎明期から今日に至るまで数多くの傑作が造られています。
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フィンランディアホール
トローン湾に面して建てられた白亜のフィンランディアホールはアールト最後の作品(1971年)です。内部はコンサートホール、コンベンションホールの二つの機能を持っています。通常のホワイエに当たるスペースでは大人数の食事ができるようになっています。コンサートホールは白を基調にした壁面と天井、黒い客席椅子の仕上げと同じく黒い木製音響反射板が心地よいコントラストを生み出しています。
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アカデミア書店
ヘルシンキ随一の繁華街にあるフィンランド最大の書店です。内部は白い大理石を張った三層の吹き抜けを中心に、売り場が回廊のように構成されています。売り場から吹き抜けへの開口は大きくなくスリットのようなイメージです。中にはアールトの名を付けたカフェがあり、アールトがデザインした照明器具や椅子、真鍮の手摺などを見ることができます。
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レストランヤコブセン
ヤコブセンが1937年に設計した劇場に隣接しています。元はベルビュー・ビーチ・レストランと言いましたが、流行らないレストランで何回も潰れたようです。最近になってヤコブセンファンのオーナーに代わり、内装から家具、カトラリーに至るまでヤコブセンテイストで揃えたところ人気が沸騰し、予約無しでは入れないそうです。Strandvejen 451,Klampenborg,Gentofte
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アルテックショールーム
アールトと妻のアイノのデザインした家具や照明器具を売るために、1935年美術評論家と資産家、アールト夫妻が設立したショップです。アルテックとはアートとテクニックの融合を表す造語です。アールトの死後も高品質でデザインに優れたアールト作品を生産販売し続けています。ショールームは繁華街エスプラナーデ通りにあり、アールトの作品だけでなく現在のフィンランドデザインのレベルを示す作品を豊富に展示しています。
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U.K. Architectural Guide

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House for an Art Lover(芸術愛好家の家)
設計: C.R.Mackintosh 設計年次: 1901年 場所: Beliahouston Park

マッキントッシュが生存中には完成しなかった住宅です。ドイツの出版業者をクライアントにした設計案です。近年、グラスゴー市と熱心なマッキントッシュ研究者(建築家)の尽力によって完成しました。
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Queens Cross Church(クイーンズクロス教会)
設計: C.R.Mackintosh 1899年 場所: Garscube Rd.
マッキントッシュソサエティーがある元教会です。内部はグラスゴー美術学校によく似ています。また、開口部とインテリアの関係に不整合な部分が見られるなどマッキントッシュらしい部分が随所に見られます。
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Hunterian Art Gallery (The Mackintosh House)
設計: C.R.Mackintosh(移築) 1892年 場所: Hillhead Street
マッキントッシュは自邸を顧客に見せて設計の仕事を得ていました。現在の住宅展示場風のことを個人で行っていたわけです。そのために注力したマッキントッシュの住まいをグラスゴー大学に移築したものです。
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Scotland Street School(スコットランド通り小学校)
設計: C.R.Mackintosh 1904年 場所: Scotland Street
現在は子供のための教育施設として使われている元小学校です。出入り口は男児・女児・幼児の三つに分かれており、厳格な区分が行われていたようです。因みに校庭も男女別です。当時の教室の様子もそのまま残されていてます。
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Glasgow School of Art(グラスゴー美術学校)
設計: C.R.Mackintosh 1909年 場所: Renfrew Street
マッキントッシュの代表作といえる建築です。グラスゴー市の予算不足から、二期に別れて工事が行われました。全体計画からディテールに至るまであらゆるところにマッキントッシュらしさが現れています。また日本の意匠に影響を受けた部分も至る所に見て取れます。
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The Hill House(ヒルハウス)
設計: C.R.Mackintosh 1904年 場所: Helensburgh
グラスゴー市から40分ほどの高級住宅地に建っている住宅です。現在はスコティッシュナショナルトラストの管理になっています。庭園やインテリアも入念にレストアされており、リビング・寝室・ダイニングなどマッキントッシュの最上の設計を見ることができます。有名なラダーバックチェアはこの住宅のために設計された物です。
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Willow Tea Room(ウィロウティールーム)
設計: C.R.Mackintosh 1903年 場所: Sauchiehall 
グラスゴーの目抜き通りであるソーキーストリートに面しています。ソーキーは「柳」という意味で、そこからウィロウーティルームと呼ばれています。マッキントッシュの重要なクライアントであったクランストン夫人が女性のために造った喫茶店で、女性のための優しいデザインが特徴です。

Ljubljana Architectural Guide

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The Cooperative Bank(協同銀行)
設計: Ivan Vurnik 設計年次: 1922年 場所: Miklošičeva
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Dragon Bridge(ドラゴン飾りの橋)
設計: Jurij Zaninovič 1901年 場所: Zmajski most
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Union hotel (ユニオンホテル)
設計: Josip Vancaš 1903年 場所: Miklošičeva
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Tromostovje(三本橋)
設計: Jože Plečnik 1932年 場所: Presemov tag
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Centromerkur(中央百貨店)
設計: Friderich Sigmund 1903年 場所: Presemov tag
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HAUPTMANN HOUSE(ハウプトマンハウス)
設計: C.M. Koch 1914年 場所: 2 Wolfova Street 
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People's Loan Bank(市民貸付銀行)
設計: J. Vancaš 1907年 場所: Presemov tag
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Pogačnik house(ポガニックハウス)
設計: Ciril Metod Koch 1901年 場所: 18 Miklosiceva 
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Agricultural Loan Bank(農業銀行)
設計: Ciril Metod Koch 1906年 場所: 2 Trdinova Street 
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The apartment house(集合住宅)
設計: Robert Smielowsky 1903年 場所: Dalmatinova 3 
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Willow Tea Room(ウィロウティールーム)
設計: Ciril Metod Koch 1901年 場所:  
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Krisper house(クリスパーハウス)
設計: Maks Fabiani 1900年 場所: 20 Miklosiceva 

Subotica Architectural Guide

Subotica スボティツァ(スボティッツァ又はサバドガ)
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Town Hall(市庁舎)
設計: Marcell Komor/Dezső Jakab 完成年次: 1910年 場所: City Center
セセッションの影響を強く受けたデザインですが、単純な模倣ではなく民族由来の色彩や形状で飾られています。特に内部の意匠はマジャール風の緻密で繊細な造り込みが見事です。
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Synagogue(ユダヤ教教会)
設計: Marcell Komor/Dezső Jakab 完成年次1902年 場所: City Center
市庁舎と同じデジャー・ヤカブなどの設計。テラコッタを多用したマジャールユーゲントの傑作。
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Raichle House (現モダンアートギャラリー)
設計: Ferenc J. Raichle 完成年次1904年 場所: City Center
これもマジャールユーゲントの影響の大きな建物です。べーチェ産と思われる陶器部品の細部を見るとレヒネル・エデンの作品と見まごうばかりです。