Lorem ipsum dolor sit amet, sapien platea morbi dolor lacus nunc, nunc ullamcorper. エリック・グンナー・アスプルンドは北欧を代表するモダンデザインの建築家です。1885年ストックホルムに生まれたアスプルンドは王立工科大学建築科に入学しますが、直ぐに退学してしまいます。一緒に退学した5人の仲間と一緒に「クララ・スクール」を設立し(1910年)、独自に建築を学びます。1928-30年のストックホルム博覧会の主任建築技師を任されるまでは住宅設計やコンペへの応募、建築雑誌の編集などをして食いつなぎますが、作品の傾向は当時北欧で流行していた新古典主義の範疇から出ることはありませんでした。 1930年のストックホルム博覧会ではスチールとガラスというモダンデザインをもたらす重要な材料を使いこなし好評を博し、スウェーデンに初のインターナショナルスタイルをもたらします。この博覧会以降アスプルンドのデザイン傾向は大きく変化をし、抑制のきいたモダンデザインで多くの設計を手がけました。 代表作は二つあり、一つは「ストックホルム市立図書館」もう一つは「森の墓地」です。「ストックホルム市立図書館」は直方体に円筒が貫入するという実にシンプルな空間構成ですが、フランスのバロック建築家ルドゥーのプロジェクトを彷彿とさせます。内部は三層にも及ぶ円筒形の書架が360度取り囲み、この空間へ入った者を圧倒します。天井は鱗模様のスタッコ仕上げで、下部書架の圧倒的なボリュームと好コントラストを見せます。 「森の墓地」は広い墓地の中に礼拝堂や墓地、火葬場などを配したランドスケープ(景観)建築の傑作です。そもそもは1914年に応募して一等賞を得たコンペ作品ですが、1940年まで実に26年の歳月をかけて完成します。 緑の岡を緩やかに登っていくアプローチは左側が低い塀、岡の頂上には十字架が立っており、十字架の左側に火葬場がありますが、頂上に到着するまでは火葬場は視界に入ってきません。死者を悼む気持ちと長いアプローチが同期して独特の空間を生みだしています。完成した1940年にアスプルンドは亡くなり、この墓地に葬られています。
チェコ・ブルノ市内の公園に隣接した小高い丘の上にチューゲントハット邸は建っています。建てられたのは1928-1930年で設計者はミース・ファン・デル・ローエです。 ミースは1886年ケルン近くの街アーヘンに石工の息子として生まれました。工芸家ブルーノ・パウルの弟子となり、その後P.ベーレンスの事務所に入ったのち独立。「鉄とガラスの高層建築案」などを発表します。1926年ドイツ工作連盟の会長となり、1930年にはデッサウ・バウハウスの校長に就任します。第二次大戦前にアメリカに渡り、1944年にはアメリカの市民権を得てアメリカに居住し、1969年に亡くなりました。 ミースの言葉で最も有名なものは Less is More ではないでしょうか。この言葉はミースのインターナショナルスタイルを的確に表現しているとも言えます。ミースは鉄とガラスという素材を最も現代的にデザインした最初の建築家です。鉄とガラスという素材だけで見ればロンドンのクリスタルパレスやパリのグランパレなども立派な鉄とガラスの建築ですが、ミースは空間を鉄とガラスを用いた抽象的なシェルターとしてデザインしたのです。 壁などはその抽象性を阻むものとして極力取り除かれます。空間は間仕切りや家具などで緩やかに仕切られつつも大きな一つの連続性の中にあります。ミースはこの連続性をユニバーサルスペースと呼びました。鉄とガラスという、どこでも手に入る材料と抽象的な空間構成、これが世界のどこに建てても成り立つという意味でインターナショナルスタイルと呼ばれたのです。 このインターナショナルの代表作がチューゲントハット邸です。道路側からは平屋に見えますが、庭園側から見ると2階建てです。居間の庭園側には巨大な連続するガラス窓が設けられ、このガラス窓は下方にスライドして地下部分に収納され、リビングは外部空間と一体化します。構造体の鉄柱はクロームメッキされたカバーで覆われ、元々細い柱が更に細く、存在感が希薄になるようデザインされています。家具や空間構成など、世界遺産チューゲントハット邸にはミースの建築哲学が余すところ無く注ぎ込まれています。
River Wien Buildings(運河公園建築群) 市立公園を横切る河岸遊歩道とオットー・ワグナーが設計したシュタットパーク駅との一体感が面白く構成されています。高低差のある東屋風の休憩施設の意匠を含め ユーゲントシュティール風のデザインです。リンク通りからヨハンシュトラウス2世像を見ながらアクセスするのも楽しいルートです。
House for an Art Lover(芸術愛好家の家) 設計: C.R.Mackintosh 設計年次: 1901年 場所: Beliahouston Park マッキントッシュが生存中には完成しなかった住宅です。ドイツの出版業者をクライアントにした設計案です。近年、グラスゴー市と熱心なマッキントッシュ研究者(建築家)の尽力によって完成しました。
Hunterian Art Gallery(The Mackintosh House) 設計: C.R.Mackintosh(移築) 1892年 場所: Hillhead Street マッキントッシュは自邸を顧客に見せて設計の仕事を得ていました。現在の住宅展示場風のことを個人で行っていたわけです。そのために注力したマッキントッシュの住まいをグラスゴー大学に移築したものです。
Scotland Street School(スコットランド通り小学校) 設計: C.R.Mackintosh 1904年 場所: Scotland Street 現在は子供のための教育施設として使われている元小学校です。出入り口は男児・女児・幼児の三つに分かれており、厳格な区分が行われていたようです。因みに校庭も男女別です。当時の教室の様子もそのまま残されていてます。
Glasgow School of Art(グラスゴー美術学校) 設計: C.R.Mackintosh 1909年 場所: Renfrew Street マッキントッシュの代表作といえる建築です。グラスゴー市の予算不足から、二期に別れて工事が行われました。全体計画からディテールに至るまであらゆるところにマッキントッシュらしさが現れています。また日本の意匠に影響を受けた部分も至る所に見て取れます。
The Hill House(ヒルハウス) 設計: C.R.Mackintosh 1904年 場所: Helensburgh グラスゴー市から40分ほどの高級住宅地に建っている住宅です。現在はスコティッシュナショナルトラストの管理になっています。庭園やインテリアも入念にレストアされており、リビング・寝室・ダイニングなどマッキントッシュの最上の設計を見ることができます。有名なラダーバックチェアはこの住宅のために設計された物です。
Town Hall(市庁舎) 設計: Marcell Komor/Dezső Jakab 完成年次: 1910年 場所: City Center セセッションの影響を強く受けたデザインですが、単純な模倣ではなく民族由来の色彩や形状で飾られています。特に内部の意匠はマジャール風の緻密で繊細な造り込みが見事です。
Synagogue(ユダヤ教教会) 設計: Marcell Komor/Dezső Jakab 完成年次1902年 場所: City Center 市庁舎と同じデジャー・ヤカブなどの設計。テラコッタを多用したマジャールユーゲントの傑作。
Raichle House(現モダンアートギャラリー) 設計: Ferenc J. Raichle 完成年次1904年 場所: City Center これもマジャールユーゲントの影響の大きな建物です。べーチェ産と思われる陶器部品の細部を見るとレヒネル・エデンの作品と見まごうばかりです。